2005年07月26日

<熊野のカミが呼んでるからまたまた行ってきた>

DIAS com Peugeot 309 e AlfaRomeo 75v6milano
<<2000年の初夏かな。熊野詣でのキョーレツなやつは、また次回。これはまあ、かるい方。でも、行った人にしかわからない楽しさに満ちあふれています。読んでるとそそられます。最初の神の国発言は小泉くんの前のバカ総理のもの。このおっさん、ほんとにバカだった。しかし、今もなお権力志向な感じ。自民党は割れるべきである。>>
 <熊野のカミが呼んでるからまたまた行ってきた>

 夢のなかでカミがおいでおいでをしてた。日本は神の国らしい。おれは「カミのくに」だと思うけどね。この違いは重要なのだ。

 今日は日曜だ。明日の夕方までに帰ってくればいいんだ。カミのお告げには逆らえないないんだもん。

 着替えも持たずに軽装で出掛けた。なんとかなるなる。309のガスを入れ、オイルを替え、万全の態勢で豊津は孫田石油から1:30pmに急発進。中環から近畿へ。西名阪さきっちょだけ入って藤井寺へ。

 今回新たにセットしたCDは、1)ジェシ・エド・ジェイムス、2)スラップ・ハッピ−の1st、3)ブレイヴ・コムボ「ナイト・オン・ア−ス」、4)ケント、5)ベレ−ザ・トロピカル、6)もういっちょうスラップ・ハッピ−2nd。なんか「イイ予感」がしてた。クルマの中が一番しっかり音楽が聴ける、とぼくは思う。キャデラックかなんかのCFでCD6枚分の時間ドライヴしましょ、なんてのがあったけど、そん時はケッて思ったけどそんなのに近い感じだった。情況が違う。方向は熊野にセット。ただし、前つかえててもオコらず、それだけたくさん曲を聴ける、という解釈でどうだ?って自分に提案すると、いいね、って自分が応える。おれもオトナになった。

 1)で近畿終了。レイド・バックしてるけどギタ−はアツイ。最近この昔インディアン・今ネイティヴ・アメリカンのギタリスト、かんなり気に入ってる。藤井寺から五条までは2)。そしておれ、イマ、スラップ・ハッピ−病に感染してる。ダグマ−・クラウゼの、それも27年前の彼女に「恋しちゃってる」かもしれない。なんでこんなにカワイイんだろ?おれのど〜もヨワイところを刺激するこの声。いかんいかん。いやいかんこともないか?寝ても覚めても聴いていたい、こんなに女声にハマったのはマリア・マルダ−以来じゃないかな。あ、ブラジルやポルトガルのオンナのヒトはかわいいというかやっぱりすごくうまい。フェイル−スはその浮遊感が現実離れしすぎてる。こんなにかわいいって思ったのは、やっぱりマリア・マルダ−以来だなあ。などとヒトが見たらばかみたいな顔できっと運転してたんだろうなあ。恋をするとオンナのヒトは綺麗になったり肌に艶が出たりと、いいことが表面化してくるのに、オトコの場合、「ふやける」。これってなんだか不公平な気がするなあ。

 さてR168である。何度も走ってるんだけど、やっぱりすべてを覚えてるわけじゃない。目の前の風景はまさにドライヴのBGVとして流れていく。今回結構自覚的によく見ながら走れた。流れてる音楽と運転するという行為のバランスが以前とは違ってたからだろう。R168はやっぱりおれとしては面白い。ただかなり大変な路であることは間違いない。十津川近いところ谷瀬あたりは路がものすごく狭いのだ。この路の狭さというのは改善不可能。両側に民家がぎっしりと並んでいる。そこを自分のペ−スで飛ばすってのが楽しいんだけど、日曜だったからか、谷瀬あたりまでかなり対向車も多かった。「族」的なクルマも以前よりは増えた気がした。一度狭い場所でバカ2人乗りのシャコタン・セドリックとお互いに譲らずに一瞬緊張が走ったりもした。

 十津川を越えるといわゆる「ぐりんぐりんカ−ヴ」下りだし、ダアレもついてこれない状態に突入。3)が佳境に入ってた。今回なんかラテン音楽はセットしなかったけど、ブレイヴ・コムボはどうかんがえてもスバラシイ。ソンナ・バナナのアメリカ大陸のライヴァル(ヨ−ロッパ大陸はネグレス・ヴェルト)は精神を解放する作用のある音楽を延々やり続けてる。おれもそのうち復活するからね。待っててね、カ−ル・フィンチ。

 予定(いちおうたてただけだけど)では次の4)の最中に熊野本宮大社に到着するはずだ。その頃はもう5時過ぎだった。なんだか今回変なのだ。苦痛というかしんどさから無縁で身体も気持ちもすごぉくリラックスしてるわけ。渋滞にも会わず、天気も中庸で、チカラも入らず、ほんとにおれオトナになっちゃったんだろ〜か?なぁんてなんだか少し不安。そんなことを知ってか知らずか、309は軽快にカ−ヴをまるでスラロ−ムのようにクリアしていってる。楽しい。しかし、以前のようなバカ笑いが起こる、そんな楽しさとは少し違うんだ。心のボトム辺りは非常に満足していて、カオはいたってク−ルなのにでもト−タルでいうと、これは楽しい以外にありえない、という情況ってワカルかなぁ?そぉんな感じ。自分の内部のある変化になんとなく驚きながらも、CD情況は4)の3曲目。もう着くよ。こなきゃいかんいかんと思いながらこれなかったこともあり、思わず叫んでしまいました。熊野大社に到着。5:30だった。ピッタリ4時間。予定どおりね。

 階段を昇り、手・口を清め、中へ入り、いつものようにチカラが抜けていき、右手のアマテラスから順番に一礼してお賽銭を放り自分と身近なヒトビトの健康を祈り、自分が関わっていることの発展を祈り再び一礼して全体が見渡せる場所まで下がりただひたすらなにも考えずそこに立って10分程過ごした。帰りに、たくさんのお守り・お札を買って、クルマまで戻った。

 どこに泊まるかそろそろ決めないといけない。湯の峰はもう遅いから晩メシ喰えないだろうと思い、勝浦まで行くことにした。新宮までの最後のR168も快感だった。30台ほど他のクルマを追い抜き、シルビアに乗ってるバカが一名、309をアオルから、わざと抜かせて、Tail to Noseで逆に責めてあげた。

 R42はまたまた空いていて、今までと同様にトバしちゃう自分にブレ−キかけんのが大変。ここはおまわりいそうなんだもん。15分ほどで勝浦に着いたから、今回は「いろは寿司」行っちゃわないといかんなあ、いやいかんなあっちゅうこともないんだけどさ。で、例の激安民宿にチェックインして風呂後さっそく勝浦海岸通りへと歩いていく。いろは寿司のとびらを開けるとおっと本日みなさんお揃いでした。息子も今日はなんか元気な感じ。おかあさんもいた。ビ−ル飲みたかった。中トロと赤身といさきをお造りにしてもらってビ−ルを飲む。今回はいさきの旬だったこともあって何度も「いさき」コ−ルの夜だった。勝浦のいさきおいしいよ。

 なんだかおかあさんの元気がないのが気になった。いろいろあるんだろうな、と思って何も聞かなかったけど、前回強烈すぎたから少し心配。おかあさんというひとは川上邦子さんといって、熊野を舞台・題材にする創作舞踏の先生です。ア−ティストのいろんな停滞っていうのはおれもわからんでもないから、何も聞かなかった。他の客もいたし、地元の二人連れとヨ−ロッパ車の話をして10時くらいには店を出た。「また突然来ます」って言い残して。

 宿に戻って、もう一度風呂に入り、うとうとしてしまった。目が覚めると2時回ってて、あっと思ってTVをつけた。代表のフランス戦が気になっていたのだ。今回はやれそうな予感がしてた。フランスもEURO2000の最終調整段階だし、日本はトルシェの首がかかってるし、やっぱりここでオトコにしてあげないとあかんやろ。結果はみんな知ってる通りです。あれだけで「世界チャンピオンと同格」っていうのは違うけど、トルシェの戦術がやっと形になってきた。ホ−ム・ゲ−ムじゃないほうがいいのかも。今の代表は前回W杯前の不当に高いFIFAランキングとは逆で不当に低いランキングだ。今だったらコロンビアぐらいには勝てそう。ヨ−ロッパでいうならベルギ−ぐらいならいい勝負しそうな感じだ。そのあとなんだか眠れなくなって結局朝まで起きてた。

 翌日。もう帰んなきゃ。でも今回はそれでいいの。朝メシしっかり食べて、新宮へと向かう。中上さんの墓参りをもう一度して、今回はていねいに墓石に水を掛け、故人のやり残したことの何十分の一かもしれないが、きっとやります、と約束してきた。そこから速玉神社へと向かい買い忘れた、お札を買って、ふと閃いた。R169で帰ろうって。

 一度帰ってエライ目に合った路だった。いわゆる「なんでこれが国道やねん!」な路。しかし、なんだかいい予感がしてた。少しは良くなってるはずなのよ。熊野博も去年あったことだし。R168を北上して瀞峡方面に折れるところからR169は始まる。ここから瀞までは未だに「なんで国道やねん」状態。でもこれはおれにとってはこんな楽しいことはないわけで、5速まで容赦なく入れて、トバシにトバス。約20kmこんなことが続き、一車線!の1km以上ある!明かりのない!トンネルを越えるとそこから先はきれいに舗装された、時に一車線部分はあるものの、大抵二車線のおれのためのぶっとばし・ロ−ドだった。それも嬉しいことに、路は瀞峡に沿って作られていて、いつも右手を見ると、そこには熊野ならではの深い緑色をした水をたたえた、上瀞から奥瀞の壮大な風景がそこにはあった。ちょっと本気になっちゃった。3kmのトンネルがこれでもかっていうぐらいあることを除けば、ほんとおれのためにある路だった。次はこっちから熊野に入るのもいいなあなんて思った。一度も休まず走り続ける。なんかとまんないのね、一旦こうなっちゃったら。クルマは少ない。周りは森も水も緑。新緑の季節。天気、はれ。風、弱風。309快調。おれ、ご機嫌。おまわり、いない。いうことなしだった。

 3時間ほどで吉野に着いて、そこからR309を通って走ってたときにお店からTELでMDがならん、という報告を受け、急遽藤井寺まででて、西名阪から阪神高速、Z3をぶっちぎってナンバで下り、日本橋直行し、新しいのを買って、お店へと向かった。何人かには、そのときお守りをあげれて、その後余韻に浸りながら、新御堂を流して帰って塾の仕事をなんとかこなし、ワイン飲んでアホみたいに寝てしまったわけでした。スピ−ド往復だったけど、これは身体が元気な限り続けなきゃいかんことだ、という結論に達した。309ごくろ−さん。猛ダッシュ熊野詣での巻でした。チャンチャン。
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2005年07月24日

最近の家電に対する文句

<最近の家電に対する文句>
<<2000年の夏号より。当時は同一マンション内に二つ家があって、行ったり来たりしてた。今考えるとなんと無駄なことをしとったんや、と思うがね。いろいろあったのよ、当時。その後関大前に住んだりもする>>
 
 ほんまによ〜壊れる。トドムンドのMDだってもう3台目だし、酷使してるとはいえ、もうちょっとメンテナンス・フリ−でいてよ、ってお願いしたくなる。うちの家のオ−ディオだっていつも何かが壊れてる。4Fの広い、塾をやってる部屋にCD/MDラジカセがあって、入ってすぐの部屋にはアナログを聞く用のコンポがあるけどそのテ−プ・デッキが今イんでる。6Fはそこで録音やってるので、普段はヘッド・ホ−ン着けてるけどスピ−カ−で聞かなきゃわかんないとこもあるからCD/MDコンポをDATとロ−ランドにつないでる。そのCDがインでる。録音のときに参考にしようと思ってCDを聞こうと思うと、4Fまでいかなきゃいけない。いくとそこにはペロがいて「パパが来た!」とばかり足元から離れないから、膝にのっけてナデナデしてたりすると、しばらくそこにいることになり、録音する気がなくなって、ま、いいか、でもロ−ランドの電源付けっ放しだった。消してこよう、って思って、ペロにかつおぶしあげてる隙に逃げるように6Fへと帰る。あ、おれ何しに下にいったんだっけ?あ、CDだよ、CD。ん〜もう。アッタマきてビ−ルなど飲んでしまったりすると、この湿気を伴う暑さにbeerは大変よく効き、一缶が二缶、そっから本格的に飲みたくなったりしてワイン開けたりして、トマトサラダとか作ったりして、夜用に買ってたお刺身、カルパッチョにしたりして、そうなると、キンキンに冷してした白はまたまたこの季節に大変有効であっという間に半分ほど空いてしまい、白は一旦開けると飲んじゃわないとなあ、ということになり、そう決心してしまえば、もうこれは何度も来た道で、みょうに落ち着き、いい気分になって、ソファに座って録っておいたVoyagerなど見てしまったりして、そのコ−フンの後にはぐったり感がやってきて、おれ、一体なにやってんだろう?と一瞬反省の兆しがアタマのなかをよぎるが、アルコ−ルによって弛緩してしまった脳は極めてバカ・アホム−ドにかたよっており、ちょっと横になろうかななどと、ソファにごろんしてしまう。「正しいミュ−ジシャン」があっという間に「昼下がりの酔っぱらいひるねオトコ」に。その間、僅か一時間。一時間あけて、ぼくんちを訪問したヒトがいたら、狐につままれた気がするだろう。それもこれも、よ〜壊れる家電製品のせいだ。
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2005年07月19日

Neil Young へ至る道程

<<3年前のフジロック、サーブぶっ飛ばして苗場まで行ってきた。前川君もマッちゃん(ZAK)も来てたんだが、会場内で電話で挨拶、みたいな巨大ライヴ会場だった。まあ、最初で最後かな。ヴァン・モリスン来たらまた行ってもいい。多分無理ね。飛行機乗れんもん。パティ・スミスはぼくには結構最悪だったが、後でいろんな記事読むと絶賛されてた。ほんまかよ。だいたい、オアシスなんかがありがたがられてるところが、ロックは終わったと言われてもしょうがない部分だ。しかし、そんなもんよりももっと助走距離の長いニール・ヤングは、またちょっと意味も体質も異なる巨人である。まあ突然変異な一般的な進化の枠を大きくハミ出た、リアル・ロッカーだろう。今思い出しても、胸の奥がジーンとなってしまう。ゆっくり読んでみてください>>

<Neil Young へ至る道程>
 あの「WELD」で決定的になったハゲがさらに進行してたら(してるだろーな)どーなんだろう。それは、だいぶ、大変恐い状況を若者が大半であるにちがいない聴衆にもたらすかもしれない、という不安があった。個人的にはこんなに昂揚するなんてことは、もう最後のことにちがいない、という確信があって、それはここまで思い入れの強い、未だそのライヴに接したことのないミュージシャンがもういないという物理的なことに由来する。でなきゃ8時間もかけて苗場くんだりなんかいかないさ。お昼すぎには到着しちゃった。
 フジ・ロックの会場は整然としてて、おれの知ってるロック・フェスティヴァルの感じじゃなかった。ごみの分別から路の一方通行からトイレの並びまでほぼ完璧な秩序が保たれていた。なんだか少し恐くなるかんじの整然度だった。それはぼくには自由を失ってしまったロックのメタファーとも映った。そしてそれはその場で一日過ごすうちにある確信へと姿を変えて、ぼくの心の中に重く沈んでいった。 ただし、食べ物はかなり充実していた。考えられる限りのすべての食べ物・飲み物がそこにはあった。いやほんとに何でもあったのよ。何でも。

着く前に心配してたことは二日目のトリであるニール・ヤングは夜9:30start。それまであまり興味のないバンドたちを延々見続けないとニール・ヤングまで到達しない。ホットハウス・フラワーズなど興味がなくもないバンドもいるこたいるが、見んでもわかるくだらん最近のバンドがホットハウス・フラワーズとニール・ヤングの間に三つも入っててそのひとバンドあたりサウンド・チェック込みで1:30という、かける3して、うわ、四時間半もあるやんけー、というある種の絶望感にとらわれてしまったわけなのよ。
 
 これは結構きびしかった。具体的にいうとステレオフォニックス、パティ・スミス、アラニス・モリセットという三組がその間に入っていやがって、でもステレオフォニックスとアラニス・モリセットはすごい盛りアガッとったなあ。おれはもうほんとにほんとにほんとになあんにもおもんなかった。前日はオアシスですごかったというし、もう世も末という気がする。アラニスのバンドはまだ少しマシだったろうか、どーかな、でもそのステレオなんとかとオアシスなんて、ロックが多様化してた時代の一番カッコわりいジャンルの成れの果てだ。コドモにはわからんだろうが、オジサンはだませない。なんかこいつら録音とライヴがなにもかもきっと同じだろうなって思えた。で、お決まりと思える箇所でガキがみんなそろってお決まりのジャンプしてた。気持ちわりいよー。お金が儲かる=コドモにもわかる、そんな安易な音楽は資源のムダなのに。少なくともおれには必要ない。日本とイギリス、よく似た状況だ。しかし、ニール・ヤングのためにはせっかく確保した場所を離れるわけにはいかんのね、これが。
 
 苦行のようだった。苦行と思うほかなかった。背筋伸ばして立ち続けることってないでしょう。おれはないです。腰・背中がたがたになるんじゃないかって思ったけど、でもどっかいけない。しかし、確実に腰・背中はインできてる。忍耐の限界がやってきて、メシ喰いにいくことにした。なんなの、それー。いや、でもこれは後から思えばよかった。なぜか?それはここへ来ているワカモノたち、実はニール・ヤングを知らなかった。だからアラニス・モリセットが終わったら、エッ、なんでなんで?帰っていくの?っておれには理解不可能な出来事があちこちで起こり始め、しめたと思ったおれはするするっと前へ寄せて行き、アリーナではないが一番よく見える中央のフェンス凭れ可、という一等地をゲットしたわけでした。
 
 ニール・ヤングの前に一言パティ・スミスにふれとこうと思う。このオバハン、ファックだった。でも女神を見るような目で見てる若い女のコもたくさんいた。パンク全盛の20年前の情報なんていくらでも操作可能だし、なんにも伝わってこないのかと思うとパンク世代の人間としてはシラケるだけだ。もひとついえばこりゃ、悲しいよな、なあんか。手ぇとか振んなよな。パンクならパンクらしく、コドモ騙しはやめましょう。
 
 そして9:30がやっとやってきた。メシ喰ってる間に夜になって、そうそうこの時のためだけにおれは大阪から650kmの道のりを走ってきたんだから、って自分に言った。ニール・ヤング御一行、ぞろぞろ出てきて、おもむろに始まった。むっちゃ意外な、というかおれは大好きな、「DON’T CRY,NO TEAR」で始まった。なにすんねん、おじさんたち。おもむろと云ったけど、いや、あのね、これがね、ほんとにね、おもむろなわけよ。ビートが異常にゆったりしてるわけ。カウント出してたのは本人だったので、テンポ勘違いってかんじかな、一曲目やし。って思った。しかし、出来は悪くなかった。でもこの選曲ほんとにフェイントだった。シブすぎるよな、ニール・ヤングマニアしかしらんぞ、きっと。そしてぼくの最大の懸念ともいえたハゲ、これもカッコいいカウボーイ・ハットにて解決! ほんと、そーいう手があったよね。ウェルドの頃より少し痩せたね。しかし、そのルックスとその後最後まで変わることのなかったおもむろな遅いビートはぼくにある確信を抱かせることになる。
 
 やった曲を思い付くまま、挙げてみようか。「love and only love」「damage done」「from hank to hendrix」「like a hurricane」「hey hey my my」「rockin’ in the free world」「powderfinger」「sedan delivery」「roll another number「tonight the night」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・涙なくしては聞けんラインナップだった。実際ライク ア ハリケーンとパウダーフィンガーは泣いてた。現実にアルバム聞いて何度も泣いていたことが蘇ってくるというか、かれこれ30年以上のつきあいのなかで本当に何度もあったことだし、しょうがない。何度も何度もぼくもニールヤングによって、彼の魂に深く達することでいろんな危機を現実乗り越えてきたわけだし、そりゃしょうがない。悲しいわけでも淋しいわけでもないがただ泣ける。それはきっとわかりやすくいうと完全な主観、そしてまぎれもなく魂のある場所から湧き出てきたなんの虚飾もない歌でありギターであるからだろうと信じる。そんな歌をおれも作ろうといつか思ったのかもしれない。すごく影響を受けてるなって実感した。孤独というものを恐れず、逃げないで、風に向かって立ち、決して自分でヒロイックという自意識もなく、ただただギターを弾きつづけるニールヤングの姿、これがぼくの彼に思い浮かぶ原風景というものだ。しかしその姿は誰を意識するわけでもないが、これがぼくにとってはただただカッコいい。生ギターとハーモニカのひとりヴァージョンもひどく印象的だった。フロムハンクトゥヘンドリックスとダメージダンが聞けた。そして再びクレイジーホースを呼んでそこからは「LIVERUST」と「WELD」というあまりにも偉大な2枚のライヴアルバムの発展的再現の場がそこにはあった。相変わらずのクレイジーホースで嬉しい。進歩しないことの素晴らしさ、進歩の先がつまんないものであることを本能的に感じれること、そういうのがアタマいいって気がする。自分にだけしかできないことに巡り会ったヒトというのはそこで立ち止まることがイイということだね。変化を求めるっていうのも神経症の症状ともいえるもんなあ。
 
 それにしてもひとつだけ違和感があって大体ニールヤング本人がテンポを出すんだけど、どの曲もあまりにゆったりしている。でもぼくはある時わかった。これはニールヤング&クレイジーホースがもう次の段階に、そしてそれはこれで最後という、段階に入ってしまったということだ。その段階というのは「おじいさんモード」だ。なんか変なふうに聞こえるでしょ。でもおれわかっちゃったんだ。この形で何度もライヴができることを彼らは望んでいて、そのための試用なのだ。ぼくも実際ニールヤングの歳にはなってないのでそこは想像なのだが、単に速いビートがきっとツラいのではないか、とおもった。ただし、これを読んでるワカモノたち、勘違いしちゃいけない。「そんなトロいビートのロックなんてつまんないぜ、そんなのロックじゃないぜ」ってふうに思っちゃいけない。なぜか?
 
 ふつーさあ、速いビートに対応できなくなったときには、そのスピリットまでオワってるヒトビトというのが普通なのである。それでも商売熱心な昔の名前で出ています、なミュージシャンは腐るほどいる。というか、そんなんばっかりである。じゃあ、最重要なものそれはスタイルではなくスピリットであることをよーく分かっている、そしてそのスピリットが決して終りにならないニールヤングのようなヒトはどうするか?
その答えがその異常に遅いビートだということはもうおれにはわかってしまった。スタイルではなく最重要なるものとはスピリットであることを身をもってわかっているニールヤング&クレイジーホースはカタチではなく自分たちのロックがロックであり続けるための消去法を敢行したわけだ。そのために犠牲にしたのが見た目の速さなのだ。「すごい!!」って思った。これは音楽をスタイルでとらえるリスナーに対する「踏み絵」なのだ。
 
 で、現実の演奏はどーだったかというと、これがぶっとい。大ナタ振り回してるような演奏って言い方わかるだろうか?遅さがなんにもマイナスになってないからほんとにすごいのね。うまいやつ4人集まっても絶対できない奇跡の音楽、超迫力の魂の具現化、うーん、言葉がもどかしい。無力やね、言葉。その遅いビートで演奏された濃い密度のなにかの塊は帰りにぼくをして190km/hの速度をいとも簡単に出させた、ってことでなんだかしらないが、そのごっつさというものがわかってもらえないだろうか、と思います。最後「トゥナイト ザ ナイト」で閉めたこと。ギター・ベースむちゃくちゃにして終わったこと、もうほんとにおじいさんになるまでは来ないつもりだな、というか日本に来るのは最後になってもかまわないというつもりだな、ということはよーくわかった。いま見れてよかった。しかしこのタイミングはたいへん微妙だった。こういうの「幸運」ってことなんだろうな。すべてが終わったとき予定を一時間オーバーして12時だった。チカラ入りっぱなしの二時間半だった。

 追記:この日はユーロ・ツアーの締めくくりだったみたい。ユーロ内を20箇所ほどツアーしてきた最終日に日本に寄ってくれたわけだね。それにしてもハードなスケジュールだ、一日前はドイツかでライヴしてきたわけだから。コーラスには奥さんと妹が来てた。なんだかあんまり違和感なかったなあ。ニールヤングのでっかさはそんなとこにも垣間見えた。
posted by おれ at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ツアー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月17日

トゥインゴとの日々

 <<ルノー・トゥインゴというクルマは21世紀的お利口グルマだった。なんで製造ヤメたんだろ。トトムンドやりだした年の(1997)年末号より>>

 最近ちょっとツイてない。2Fを「おこた部屋」にしようと思って、それを配達してもらうのが火曜日の朝で、ぼくにしてみたらチョ−早起きをして店までいったんだ。クルマを新御堂沿いに止めてロバ−ト・B・パ−カ−の新作をもって、石油スト−ブを点け、お湯を沸かして、カフェ・ミット・ルムで身体を温め、冷蔵庫から卵を見つけて、オムレツを作り、一番座り心地のいい椅子を持ってきて、足をカウンタ−に乗っけて、なれないことした割りにはなかなかいい午前中をおくってるぞって思ってたわけ。

 本にもぐいんぐいんと引き込まれていき、気がつくと11時、あ、MD終わってる、ピエ−ル・バル−にしよう、次、コ−ヒ−もうちょっと入れようかな、そして読書へ、そ〜か〜、ユダヤ人の女は異常なセックス好きか〜、でもスペンサ−とホ−クのこんな会話、アメリカのアホのアンチ・レイシストなんかにはどう思えるのかなあ、まあでも自立した個人同士だからイケるんだよなあ、これって、う〜ん、近鉄百貨店、なにしてんのかなあ、11:45といえばまあ午前中といえば午前中だけどさあ、もっとなんていうか、はっきりした午前中にもってこいよな、9:00びったし、あまりにわかりやすい午前中でしつれいしましたっ!、とかさ、ジャスト10:00で、あまりにこれまた意外性がなくしつれいしましたっ!、とかさ、こっちだって朝のウンコ我慢してきてるんだからさあ、そのお客様のご足労に対して、すがすがしく報いる、なんてことがあってもいいわけだろ、こういう場合にかぎっていうと、あらあら、もう12時すぎちゃったじゃないの、やっぱこりゃ一言ゆっとかなきゃな、まあ1時ぐらいまでならいてもいいよ、そんな、おれだって人を4時間ぐらいまたせたことあるもん、ジマンじゃないけと、ま、今回の場合は午前といえば3時間の「はば」があるからね、たとえ12:30でもたった30分のおくれだから、たった、ユルスユルス。で、電話してみたわけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 一週間間違えてた。来週の火曜だった。ガァ〜クウ〜ッ。
 ため息のひとつやふたつに咳払いがまじってたかどうかは忘れましたけど、なんとなくこれって「失笑」を買うってかんじだよな、って思いながら、そうだこんなときはなんか旨い昼メシでも喰おうと思って夕霧そばにて、温かいゆずぎりを食べて、トゥインゴを止めてたとこまで歩いてった。きゅきゅっと新御堂ズルしてはいってもうぶっとばして帰ったろ、と思いながら。

 でね、な〜んか、いないわけよ、ぼくの「ルノ−・トゥインゴ96年式限定300台特別キャンバス・トップ仕様イ−ジ−システム搭載色はヴェロネ−ズ・グリ−ン走行積算距離11000km」が。

 レッカ−やられてた。路上には単に「ルノ−緑」と書かれてあった。しっけいだろ、それ。

 レッカ−代¥12000也、頼んでもいないのに、保管駐車場代¥2000也、チュウキン¥15000也、ト−タル¥29000也の出費でした。おこた用に代金引き換えのため所持金¥40000也を持ってたからよかったんだけど、でもドブに捨ててるみたいなもんだよなあ、これ。北風吹きすさぶ中、中崎町の保管所まで歩いて、残りのお金で中古CD「ガッチリかいましょう」20枚ヤケ買いをしてすっからかんになって帰ってきた。
posted by おれ at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | ルノー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月15日

あるいはアタシの上を通り過ぎていったクルマたち。

DIAS com PEUGEOT 309GTi e AlfaRomeo75v6milano
 あるいはアタシの上を通り過ぎていったクルマたち。
<<要注釈。当時(2000年)は309まで、サーブ以降はその後。それにしてもよー乗った。ボロばっかり。どいつもこいつもいい子はひとりもいなかったが、今思えば可愛いやつばかり。クルマもねこもオンナもアホっていいね。>>>

 アルファのセルモ−タ−はサ−ブの中古を改造してもらって7万ぐらいで納まった。ただし、バワ・ステオイル漏れ、ブレ−キ・オイル漏れも気になってたんだけど、ブレ−キ・オイルの漏れだけ直すことにした。パワ・ステの方はしょっちゅう気にしときましょう、ということになった。修理の結果が気にしときましょう、ていうのもおかしな話だと思うかもしれないけど、そんな「鷹揚さ」の必要性もあるのだ、イタちゃんのバアイ。どばどばのモレ以外はモレにあらず。それ以外は快調でやっぱりアルファのV6エンジンは官能的である。
 
プジョ−は前号で書いた、ファンのぎょえええ〜〜〜〜の他はいたって快調でコンスタントに5000rpmまで回してる。ぼくは思うんだけど、このクルマの軽快さっていうのはいわゆるかつてのホット・ハッチ好きにはこたえられんのじゃなかろうか。それがまずこのクルマの美点である。前に乗ってたシトロエンBXGTiのエンジンと寸分違わないはずなのに、なぜこんなに軽快なのかね。車体の軽さとFFならではのクイックなステアリングと205よりホイ−ルベ−スが5cm長いのがその理由なのは理屈ではそうなんだけど、数値化できないものがきっとそこにはあって、だからクルマは面白いと思う。ぼくのクルマ選びはある種のディレッタンティズムに裏打ちされていて(今思えば)それは最終的に乗りたいクルマ目指して、段階的にグレ−ドアップしていくとか、リセ−ルバリュ−を考えて、なんてことはもちろん全然なくて、その時その時の短・中期的な体調・気分と経済状態との兼ね合いで決めてきた。そもそもぼくは18の時に免許をとったんだけど、当時はクルマにはそんなに興味がなくて、ほら、興味がないとさ、おれ、その周辺すべてのことがどうでもよくなるタイプなんです。だからただめんどくさいという理由だけで一回目の更新にもいかず、失効してしまってた。なんちゅうやっちゃ、でしょう。で、興味がもてたのはその後10年以上の歳月が流れてしまったあと、ということになる。30才過ぎてなにかの拍子に「乗りたいっ!」って思ったのね。で、一旦乗り出すと、これがもう駄目だった。ずぶずぶずぶとふかぁいところまで行っちゃったってわけさ。
 
 で、その遍歴はといいますと、これが自分でも面白い。もう一回やってみたい。そこで味わった苦労もコミで味わってみたい。ボルボ240エステ−ト、フィアット・パンダ4x4、シトロエンBXGTi,ルノ−・トゥインゴ・イ−ジ−・キャンバストップ、ランチア・プリズマ・インテグラ−レ,アルファロメオ75v6、プジョ−309GTi、サーブ900Turbo CONVERTIBLE、ルノー・エクスプレス、フィアット・ウーノTurbo phase2 Leather Package、プジョー106XSi。とこれがぼくの過去そして現在の愛車たちです。ぼくにとっていまやクルマというのはイヌやネコとあんまり変わらない。イヌやネコがそうであるように、友人でもあり相棒でもあり愛人でもあり子供でもありなにか他の大きな生命体からぼくんとこにやってきた使者でもある。大袈裟に聞こえる?いいのよ、聞こえても。時に、あまりに真実はうそっぽく聞こえるものなのだ。 それぞれに思い出があります。ボルボは全然壊れなかった。買ったばっかりの頃は、まだ走ってるの少なくって、なんつってもでかいから、路を譲るなんてこともなかった。その後何を血迷ったか、ボルボの営業方針がベンツの後を追っ掛けるようなぼくのいやな感じになってきて、日本車からの乗り換えが増え、おばさんのドライヴァ−が増えだしたころからぼくはまったく興味がなくなった。今は、うちの親父が乗ってる。赤のワゴンだから、結構振り返ったりするって、オンナが。あほやな、おっさん。そしてぼくに運転の楽しさを教えてくれたのがフィアット・パンダである。よくこわれたけど、直ってきたときのあのうれしさってなかった。そのうれしさってのもパンダにより学習したみたい。ダブル・サンル−フを開けて春の日なんかに走ってるともう笑うしかないってこと。遅い(リッタ−カ−だから)んだけど速い。運転してるやつには。体感速度こそがスピ−ドである。音もナマイキに一応イタリア車の音がして、朽ち果てるまで乗りたいと思った。熊野にも最初コイツと行った。ラジエ−タ−の水漏れがひどくて、ペット・ボトルにはいつも2リットルの水を入れてた。修理してもしてもなんか直んないからディ−ラ−にお金払わないでおいたら、訴えられて被告経験もした。おもしろかった。パラボラの録音の時にお金が足んなくなって、当時クルマを欲しがってた青美ちゃんに買ってもらった。パラボラの2曲分ほどはフィアット・バンダによってできてます。そしてしばらくクルマなしだ−、とおもってたんだけど、どうも我慢できなくて、手をだしてしまったのが、シトロエンだった。ノア−ルのBX。それまでパンダでやんちゃ小僧してたのが、いきなりシックになったわけだった。シトロエンでは熊野3度ほどいったなあ。帰りにこわれて、電車で帰ってきたこともあった。しかし、なんといってもその乗り心地、これはエクセレント以外の何物でもなかった。今でもシトロエンが一番おれに似合ってたって声も多い。そしてあのスタイル、一言で云うと、洒落者である。いま、あんなスタイルのクルマってない。ハイドロによって、つまり車体がオイルにぷかぷか浮いてて、車高が4段階に変化するから、エンジンをかけたときに車体がふうっと上がってきて乗ってる人は大抵びっくりする。震災のときなんか、ほんとはそれでは走っちゃいけない一番高い車高にしてひどい段差を越えたりした。高速なんかの気持ち良さは云うに云えん。ハンドルを切るとちょっと遅れて車体が曲がる感覚とか、スイッチみたいなブレ−キの感じとか、アジは薄められたとはいえ、「変態シトロエン」の面目躍如。なんでこれがこんなとこに?の連続で最初はアキレかえり、あとからはもうドップリ、そんな変態的箇所を見つけると嬉しくってしょうがなかった。ちまたで有名なそのハイドロの素、LHMオイルの漏れは一度しかなかった。他のことはいろいろあったけどね。そんなときに、最初はなんとも思ってなかった、トゥインゴが突然気になりだした。300台限定のキャンバス・トップが発売されたことも大きい。3台はキツイかな、とも思ったんだけど。安かったし。でヴェロネ−ズ・グリ−ンのトゥインゴがとぼけた顔してやってきた。このころはシトロエンは週末にしか乗ってなくて、もっぱらトゥインゴに普段の日は乗ってた。このトゥインゴ、イ−ジ−・システム搭載でした。一体なんじゃい、と思うでしょ。これがクラッチレス・5速マニュアルで要するに、2ペダルなのにシフト・レバ−でマニュアル・シフトができる、という、「なんでやねん?」グルマだったわけ。買ったときは左足がありもしないクラッチを求めて、パブロフの犬みたいだった。しかしボルボ以来の、壊れんクルマ。小さいくせに中が広くてヘッド・クリアランスもたっぷりで、かなり使えた。シ−トも小振りだったけど、さすがルノ−って出来。ルノ−のシ−トは世界一。前・後席がフル・フラットになって大人二人が悠々寝ることが出来る。すごかった。トップをフルオ−プンにすると、解放感120%。そしてオニのような高速安定性。あのね、見るより乗る方が100倍値打ち、のクルマだった。トゥインゴでのおれのワザといいますと、初めて乗るひとを横に乗っけて、おもむろに左足を窓から外にだす。そしてシフトしながら運転する。クルマに乗ってるやつはまずびっくりする。これけっこう痛快まるかじりでした。そのうちにシトロエンは今をときめく松ちゃんことZAKにただ同然で売ることになった。東京に持っていった翌日にガソリンがだだ漏れしたりして、やってくれとったんやけど、そのあとどうなってるのかなあ、って心配してたら、なんと去年まで乗ってたって。それを聞いてほんとにうれしかった。
 
 で、しばらくトゥインゴとボルボのおりこうさんチ−ムとの日々だったわけ。しかし、なんかもの足りん。このままじゃ左足が退化していく。その危惧にかられたぼくは、千里の車屋でふと見つけた、ランチア・プリズマ・インテグラ−レを衝動買いしてしまう。紺の、コイツはいま考えてもワルそうなクルマ。デルタじゃないところがシブかった、と思ってる。ダ〜レも乗ってないプリズマのインテグラ−レ。こんなこと、ぼくが最も好きなパタ−ンなわけ。こいつも走ってて楽しかった。クラッチはあほほど重たいんだけど、山にいくとそれがなぜかちょうどいい。ステアリングをサソリのアバルトに替え、シフトレバ−は木製のものにした。ワインディングでは4WDにして重心がちょうど真ん中にある状態で回るように走るのは楽しかった。しかし、お店を始めて、いろいろとお金が要ったりして、ちょっとした金欠状態の時に、ミタキが買ってくれた。今もステアリングとシフト・レバ−はミタキのデルタについてるそうである。ほぼ同時期にトゥインゴも売った。それでお金があんまりなかった時期だったので、どうしようかなとも思ったんだけど、アルファ75の白と出会ってしまって、いつもの「我慢できん」状態になってしまいまして、購入。白がほんとはいいんだよ。アルファっていうとRossoってイメ−ジだけどね。そして以前から気になってたプジョ−309の赤も安かったし連続購入。今に至ってる、っちゅうわけなのよ。まあ、ほとんど道楽に近いですね。道楽そのものって意見もあります。でもさあ、ほんとに可愛いクルマばっかしなのよ。フェラ−リなんかには全然食指は動かないんだけどね。そもそもステイタスの体現としてのクルマっていう発想がないんだな、おれには。いっぱい壊れるけどしっかり直して次のヒトへ、なんてことも多かった。あ、そうそう、ぼくのクルマ壊した歴の中で特筆すべき現象がありまして、それはシフト・レバ−を「折っちゃった」ってのが、しかも3度(パンダ1回・シトロエン2回)も。ドリフのギャグに近いその現象ですが、そんな目に遭った人は、だいぶいろんな人に聞いたけどいない。おれだけか?しかも、3回も。これはどう考えるべきなんだろうか?そんな、ガッツでシフト・チェンジしてるつもりないんだけどな。してるかな?でもやっぱりシフトは利き腕、つまりおれの場合右腕で操作するのが人間工学上正しいと思う。最近、どのメ−カ−も(アルファまでも)日本市場を意識して右ハンドルのクルマばっかりになっちゃったけどおれはいや。左ハンドルが好きだ。よく代車で日本車借りるけど、ゴミ収集でもしようかな、ってくらい気分がlowになる。そんなときのクルマってほんまのおっさんのそれってことが多いんだけとさ。
 
 また春が近くなってきた。熊野にもまたまた性懲りもなく行くことでしょう。きっと今度もプジョ−でいくと思うけど、前回こわれちゃってイマイチだったから今度はきっとあっという間に1000kmほど走ってしまいたい、と思ってる。高野・竜神スカイラインも呼んでいる。今、昔のヒトリツウシンをリタイプしてお店に置こうと思ってるんですが、その熊野シリ−ズがとんでもなく面白い。一度読んでみてください。それもこれも、気に入ったクルマに出会ったからこそありえた話なのだ。時代とぼくの一生とのクロスの幸運な一例でした。これでぼくが10才若かったら、こうはいかなかったってとこが面白い。最近どうも暗い話題が多くて、こんなときだから、でもしょうがないなあ、って思ってたけど、こんな楽しいことを基準にモノを考えるとまあ、それも当たり前か、という気もしてくる。ただそんな「楽しさの実存」も事実なのだ。あかんときもあればいいときもある。ポシティヴに生きるって大切よね。イヤ、ホント。

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2005年07月14日

<日本にもテロ?>

<<注釈が必要だ。イギリス・ロンドンの物理的・爆発的なテロの怖さはもちろんだが、ぼくらが生きているこの現状も程度・規模の差こそあれ、ちっちゃなテロに身のまわりが満たされていることに気づくだろう。肉体が滅ぼされるか、その前に精神が滅ぼされるか、そんな競争してどーすんねん?という、こと。2004 秋号から>>

<日本にもテロ?>
 オーストラリア大使館も遭っちゃった。きっと日本も本土はともかく、大使館レベルでは近いうちにテロがあるでしょう。小泉くん、どう責任とるんだろ。それにしてもテロリストたちは「より卑怯な方法がより成果をあげる」というtheoryに人道面で疑いを抱くことをもうやめちゃったみたいだね。それは彼らが追い詰められている証拠だし、もっと卑怯な手を次に使ってくるという仮説が成り立つことになる。ロシアのテロも理屈は同じでプ−チンの大統領生命は対テロでまずは強硬にでないことには約束されないのは、先に手をだしちゃったブッシュと立場は同じ。それでもこの二人は延命しそうな、悪い予測がある。しかし、悲惨だなあ。国内の事件も悲惨だしなあ。ひとがひとを殺すことにこんなにためらいのない時代も戦時を除けばかつてなかったんじゃないのかな。ひととひとの間には対決しかないのかという、これも仮説だが真実味はどんどん増している。

 地震・雷・台風・テロ・身近な殺人。世界は未だ世紀末である。ひとは成熟しない。政治家はアタマ悪い。企業はひとを切って生き延びる。コドモはキレてあばれる。それを説得して諭すチカラも社会にはない。オンナは自分を磨くことだけを考え、オトコはメディアに喚起された欲望を持て余し暴発する。でっかい水爆でも落としてくれた方がすっきりするかもね。
 アルカイダがやんなくても、おれたちの周りはすでに小さなアルカイダだらけである、と言えないだろうか?クソみたいなTV番組・クソみたいなCM・クソみたいな映画・クソそのものの音楽・脳内クソだらけのワカモノ・・・、そんなうんこまみれな環境でヒトはどー狂っていくか、なんて実験やめよーよ。その結果はもう出てるじゃないの。はげしい自己中心主義と他者への無関心、生命の軽視と想像力の激しい欠如、バカ大量発生とバカのための産業だけが報われる、だろ。マトモ、って何がマトモかもよーわからんが、マトモな感覚の人間には周りをアルカイダに包囲されてるのと同義やで。今のこの日本って。アルカイダのテロなんて、自衛隊をイラクから退きさえすれば、解決じゃん。それにひきかえ、この環境テロはどこに責任があるのかが、わからない。もう対処の仕方も考えられないところ、引き返せないところまで来てる。どーすんの?
posted by おれ at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月12日

ロンドンのテロ。今一度考えてみよう。





<イスラムはなぜそんなんなのか>
 イスラムと一口にいってもさまざまな民族がいる。アラブ・トルコ・イラン・イラク・パキスタン・アフガン・アフリカの民族・ユーゴの最近のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で迫害された人々。タイ・ベトナム・ラオス・カンボジア・ミャンマーの仏教国とインドを除いた東南アジアのほとんどの国の人々。なんとアメリカにも昔からいる。キング牧師よりも過激だった黒人運動家マルコムX、かつてのカシアス・クレイである元世界へヴィ級チャンピオンのモハメド・アリ、あのアトランタ五輪で聖火点灯腕震えながらやってたヒト、あれは病気なんだけど、放送中のゲストのばかタレントが「あの人感動して腕がフルエてるう」っていったのは「ばかかお前」なんだけど、そんなことはどうでもいいてすね。あ、そうそう格闘探偵団バトラーツのモハメド・ヨネはきっと違うとおもいます。これもまたまたどーでもよかったね、失敬失敬。
 なぜイスラム原理主義過激派はアメリカをそんなに憎むのか?
 基本的にイスラム教徒はアメリカに代表される西欧キリスト教文明を憎んでいる。なぜか?



1)宗教的近親憎悪:
 ユダヤ教、そしてその系列のキリスト教、そこまではなんとなく関連わかるでしょ。ユダヤ教の旧約聖書にキリスト教の新訳聖書ってぐらいだから。そしてじつはアッラーの神・コーランのイスラム教も実はユダヤ・キリスト教の兄弟なのである。ポイントは一神教。唯一の神を信仰していること。生まれた場所がとれも中東であること。それは何を意味するかというと。その場所はそういう宗教が生まれやすい場だったということね。イスラム教はキリスト教よりも何百年も遅いけど、創始者である「神の啓示を受けた」とされるマホメット(読み方によってムハンマド/モハメド)はスタイルに関して無意識の中で先行二宗教に影響を受けたのは間違いない。それだけ一神教というのは世界的にみてもその地域独特の産物なのだ。「神の前ではすべての人は平等」とか教義も共通点がある。でも、一神教だから神は自分の神しか認めない。平行に流れる二つの川みたいなものなわけ。そしてそれらは決して交わらない。
 2)昔のライヴァル関係その1:
 ライヴァルといってもこれは陸上競技のそれではなく格闘技のライヴァルね。要するに殴り合い・ケリ合いの歴史です。十字軍って聞いたことあるよね。これはまぎれもなく宗教戦争なわけです。お互いの聖地奪還戦争を何度もやっている。お互いにお互いの領土深く深く侵攻して略奪・殺りくの限りを尽くしている。そんな言葉にならないくらいの恨みがある。そんなことが二千年ほど前からある。
 3)昔のライヴァル関係その2:
こっちは陸上競技的。栄光が絡んでいる。かつてイスラムの国は栄えていた。ペルシャなんて国きいたことあると思うんだけど、ヨーロッパ以上に東方(中国諸王朝)と西方(ヨーロッパ)の中間地点を支配していたイスラムの王朝は交通・貿易の中心で富が集中して栄えた。シルクロードの出発点ね。イスラムの国を通って東西の文化が混ざりあった。近代の幕開けのための三種の神器である「火薬・羅針盤・活版印刷」もイスラムの国があったからこそ世界が共有できた。文化的にもヨーロッパとイスラム世界はなんと遜色もない。「アラビアン・ナイト」なんて素晴らしいでしょ。チグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明なんて今のイラクの地に栄えた。そのなんの遜色もなかった二つの世界に格差が生じたのが皮肉にもその三種の神器がイスラム世界経由で中国からヨーロッパへ伝わったことが大きな原因になるのである。そうその瞬間からヨーロッパは一足先に近代への変貌、そして世界探検・世界征服/植民地化へ、帝国主義へと進んで行くのである。それが現代の貧富の差の大きな要因だっつうのはわかるよね。
 4)イスラエルとパレスチナ
 対キリスト教・対ヨーロッパという意味でもイスラム世界は意識の上で結束を強めてくるなか、20世紀になるとヨーロッパからユダヤ人が現在のパレスチナに戻ってきはじめる。聖地があるからだ。ところでこの聖地だけどユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地が見事にダブっているのには驚かされる。同一の場所なのだ。同じHOLY ROCKに三つの宗教の聖地がある。もっとも古い宗教はユダヤ教だからそれが優先されるべきだと思うかもしれない。しかしユダヤ教徒は、ローマ帝国によって、自分たちがキリストを殺した黒幕でありながら、一旦国教となってしまうと異教であるユダヤ教を迫害して、しかし殺す代りにその場所から追い出してしまう、という目にあわされるのだ。キリストを殺したユダヤ教徒がどこかで生きていることで、キリストの実在を確認するという倒錯した考えに基づいての政策なんだけど、なんやねんそれって感じでしょ。そんなこんなで1500年ほど国を持たないユダヤ教徒たちが帰ってきた時にはそこは完全なるイスラム世界になっていたというわけ。しかしイギリスとの密約で第二次大戦後にイスラエルを建国する。しかしこの時イギリスはパレスチナのひとびとにも密約をしていたわけ。にもかかわらずイスラエルは強引に建国。しかし大国との密約があったとしてもよくそんな異教徒に囲まれた危険な場所に帰ってくるね。その理由は、しかし、やっぱり、聖地があるからなのだ。そこまでの宗教の力というものはそーゆー点ではアホなぼくたちにはわっかんないな。よっぽどイギリスにうまいこと利用されたのかな、などと俗っぽいことを考えてしまう。実はそれこそがイギリスの狙いでもあって、オスマントルコが第一次大戦まで中東におけるイギリスの覇権の邪魔でしょうがなかった、それでイギリスはオスマン帝国なきあとも中東がイスラム一色になるのを避けるために異教のイスラエル建国の密約をしたわけだ。いけないセックスを悪いオトコに教え込まれて、もうやめようと思いながらも電話がかかってくると理性ではわかっててもカラダが疼いてつい出て行ってしまうオンナのひとみたいだね。いや宗教者と聖地のたとえなんですけどね。とにかく強引に国をつくっちゃった。その結果、そこに千五百年以上住み着いていた人々は「難民」となった。イスラエル国内の何ケ所に囲い込まれてそこで暮らさざるを得なくなった。これがパレスチナ難民。イスラエルとパレスチナは4度の全面戦争、ほぼ毎日の小競り合いをやってる。3世紀にローマによって追い出され千五百年以上も世界をさまよっていたユダヤ教徒と千五百年以上住み慣れた土地を追い出されたパレスチナの人々。どちらも大国の都合という当事者にとっては涙も出ないような悲劇だが、これがパレスチナ問題と云われるものだ。その後イスラエルはアメリカが支援を始める。なぜか?ユダヤ人に天才とか事業の成功者が多いっちゅうのは知ってるよね。迫害され続けたユダヤ人がアメリカという新しい国で生きやすいってのもわかるよね。伝統も差別もない。ヒットラーの弾圧がそれに拍車をかけた。アメリカの大金持ち、政治・経済の中枢はユダヤ人が占めている。今回の貿易センタービルのオーナーだってロックフェラー家だ。そのユダヤ人の国イスラエルには援助しないわけにはいかんよね。イスラエルはアメリカと繋がっているんじゃなくて、アメリカの中枢と繋がっているわけだ。アメリカはODAという制度(開発援助のための資金。これは実は日本が一番東南アジアなどの発展途上国などのために貢献してる)を利用してイスラエルを援助してきた。おかげで軍の装備はイスラエルかなりのものだ。逆に難民のパレスチナ人は軍備にかけるお金なんてない。国を突然誰かの都合で追われるってことがどういうことなのか。こないただのユーゴの内戦が記憶にあたらしいけど、今まで住んでいた慣れ親しんだ場所を身の危険から離れなきゃいけなくなっちゃう。そんな情けないことはないよね、きっと。仕事も知人もなくし、もっと悪い場合家族もなくし、日本はそう言う意味では島国で助かってる。フビライにも侵略されなかったわけだからね。で、装備バッチリのイスラエル軍に対して、貧弱な武器しかないパレスチナ人たちはしだいに存続に関して危機感を持ち出す。だってライフル撃ったらミサイルが返ってくるんだもん。コドモたちなんか「石」投げてる。コドモたちも男女問わず兵士になる。難民キャンプの中で銃の扱い方を学ぶ。だってそんなことくらいしかないのよ。オトナがやってることといえば戦争なんだからね。
ところで、社会的弱者が生き延びるためには一体何が必要かってこと考えたことあるかな?
 一番大切なのは、それによってプライドをもたらす心の拠り所だと思う。集団としても劣勢なんだからその「心の拠り所」はその集団の結束力をも強化しなければいけない。で、パレスチナ人にはそれがあったわけ。何かというと「アッラーの教え」なわけです。もとからそれはあったものだけどより大きな必要性がそこには生まれてくる。そのパレスチナの実状は1970年代は社会主義とも結びつき、世界同時革命を唱えていた日本赤軍もその考えに同調し、こないだ帰ってきた重信房子氏を中心にした一派はパレスチナ難民にシンパシーを感じて難民キャンプで一緒にくらしてたんだよ。当時のゲリラの一人「岡本公三」なんて人はロッド空港で機関銃の乱射をして何十人も殺したが、アラブ世界では英雄なわけなのよ。そうテロの先輩には幸か不幸か日本人もいるのだ。でね、そんなライフル撃ったらミサイル飛んでくるような状況の打開策(戦争としてのだよ)というのがテロリズムなわけ。戦争においてはこれはありえる話。「弱者の最後の手段」といえるでしょ。テロリズムはパレスチナ・ゲリラの代名詞だったわけ、つい最近までは。
 つまりパレスチナvsイスラエルというのが地域紛争でもあるがイスラムvsキリスト代理戦争の意味合いもあったというわけ。
 5)湾岸戦争とイスラム原理主義の台頭:
 テロが貧者の最後の手段であることは今云った。主にパレスチナ・ゲリラがよく使う手だということもわかった。80年代、社会主義が硬直化して崩壊寸前の頃はそんなにテロはなかった。比較的幸福な時期だったと思う、世界的にも。そして90年代になって湾岸戦争が起こる。 
 イラクのサダム・フセインがクウェートの石油を狙って侵攻したことに対する国連安全保障理事会の決議に基づかないアメリカ主導の多国籍軍(国連軍ではないとこに注目)による制裁だったわけだが、わずか24時間で多国籍軍はクウェートを奪還した。その後の駐留で多国籍軍は150人が死亡したが、それに対してイラク人は軍人・一般人込みでなんと100000人が殺された。10万人よ。使った爆弾もナパーム弾・気化爆弾・クラスター爆弾・ウラン劣化弾。これらの兵器がただ核爆弾という名前がついてないだけのむちゃくちゃエグイ兵器です。土地のへこみを生きた人間で埋めて地ならししたり、これはフセインではなく米軍がやったこと。こういうのってメディアはちゃんと伝えないんだよなあ。でも今はインターネットがある。真の機密情報はインターネットにはないが、こんなことはある意味知っててもいいしネット上ですぐアクセスもできる。じゃあ知ることができるのに知らないですませてTVで見たことだけをベースにエラそうなこというのはやめないといかんね。怠惰ってことになるよね。
 中東ではサウジアラビア・アラブ首長国連邦・クウェートが原油によるお金持ちであとの国はみんな結構貧しい。お金持ちの国はまあだいたい西側先進国志向になっていく。そこには贅沢のサンプルと贅沢でなくとも近代の考え、つまりポップ文化があるからだ。主にアメリカ文化がそうなると流入してくる。まあ日本や韓国みたいなものかな。しかし、貧しい国はそんなことができないから、普通は一般の人たちはやっぱちょっとくやしいわけだよ。いーないーなって。それは今の中国を見るとわかる。開放政策後の突然の物欲の爆発。同時にモノが豊富になるということは、悲しいことに人間がなぜか下品になっていくよね。お金がらみの犯罪も増える。オンナはきれいになっていくし、開放的にもなっていくが。関係ないけど今の日本のオンナのひとたちのその後何が待ってるのか、オッサン化の後・・・なんてちょっと心配しているオトコ一名ここにいるが、ま、それはどーでもいーとして。
 でね、湾岸戦争でとりあえずフセインを超ギャフンといわせたあとも、どーもこのおやじは信用できんっちゅうことでさらにサウジアラビアに米軍が駐留する。このことがイスラム世界のなかの真面目に宗教やってるひとたちを「ん?」ってさせたわけ。
 そもそも歴史というのは1980年代まではそのベクトルがおおよそ決まってた。先進諸国がリードして他の国もそれを目指してって。ところが先進諸国つまり欧米日にかげりが出始め、それはあっという間に広がり
、そのベクトル自体がダメなんじゃないの?って感じになってきたでしょ。地球環境に関する関心も高まり、絶対この人口爆発が続くともうすぐ地球のキャパ超えるって今じゃ小学生でも知ってるよね。同時に欧米諸国がやってきた方法じゃその他の国はやってけないんじゃないか、そもそも資源も有限であってそれも先進国に取られちゃう可能性が高いし、その方法そのものが間違ってたんじゃないかっていう、これも一般的な考え方でしょ、みんなが共有できる。そこで自分達のオリジナルな文化に目を向けてみる。おれたち日本人だったらお米を見直そうぐらいしかないかもしらんがイスラム世界には千年以上も社会で機能しているイスラム教がある。実はイランがスンニー派のホメイニ師によって79年に行ったイラン革命が実はそれだったわけ。今はすこしこちら側に戻ってきてるがかなり衝撃的なできことだよね。コーランの教えによって国を治めるなんてさ。中世にタイムスリップってことなのよ、これ。日本でいえば今日から鎌倉時代の生活をしないとダメ、みたいなことね。そんなことがきっかけでイスラム世界のワカモノたちの中にイスラム教をもっとマジで勉強してみるかという人が出てきた。どこで勉強するかというと大学です。神学部で勉強する。あのラディーンも神学部の大学院生だ。同い年ってのがまたちょっと気にはなるんだけど。
 で、お勉強すればするほど、きっとこの人たちはムカついてくるのね。若いインテリ特有の思考に幅がないことも手伝って先鋭化してくる。ただ冷静に考えたとしても、このイスラム世界を「根本から」救うには欧米のすべてを排除して、アッラーの教えに従って酒も飲まず、妻は4人ほどめとって、戒律に忠実に生きるしかないぜ、という結論に達する。これがイスラム原理主義者といわれる人たちなわけ。その原理主義者たちに、サウジに駐留してる米軍の存在がまゆ毛ピクッときた。聖地メッカのある国になんで異教徒がエラそうな顔しておんねん。米軍には女性兵士もたくさんいて、なんやあのおんなたち、肌を露出して、イスラムの土地を穢しやがって、とまるで後半などは同い年でもおれとはまったく反対の、まゆ毛下がるとこが片ッポ上がる、なんて反応になっちゃったわけ。そんな中イスラム国であるアフガニスタンでその原理主義者たちのグループがほぼ全土を占領して国を乗っ取っちゃう。女性は行動がものすごく制限される。仏像壊したりして、なんつっても原理主義だから異教徒のものがあるのがもう許せんわけね。その中の過激なグループがあるときパレスチナ人のテロの拡大解釈をして、それを通常の戦法にしようとしていること、それが端的・超悲劇的にあらわれたのがこのアメリカ襲撃だと思う。そのベースには湾岸戦争で起こった信じられないような、戦争というより一方的な大虐殺といってもいいようなアメリカの野蛮な振舞いと、それに対するイスラム世界の悲しみと屈辱感、それにどうやってもかなわないそのすごすぎる軍事力に対する「普通の闘い」に対する無力感がある。

 ただこうなっちゃうと、ブッシュはその意気込みとは裏腹に旗色悪い。テロは神出鬼没だし、変な言い方だが、そのコスト・パフォーマンスは死ぬほどいい。ターゲットを捕らえることができるのか。そしてそれが根本的解決になるのか。アメリカ人が盛り上がってることがぼくは一番戦慄だ。原理主義者過激派のクールネスとそれによる確信犯に、逆に狂気で挑もうとしているように見える。一旦火がついたら湾岸戦争の時よりもひどい事態が待っていると思う。テロもそうだが、大義のある一方的な虐殺行為もまだ間に合うんだったらなんとかそれを止めさせることができないんだろうか。それは全世界の理性のある人々の無力感となってほんとにバカで無知だけしか元気がないというような、今の日本のような社会が全世界に蔓延しちゃうぞ。
posted by おれ at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | world/globe | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月10日

<ばかは死ななきゃ直らない>

<<2年前のちょうど今頃のヒトリツウシンより。英国でのテロは必然だったのだろう。殴り合いは果てしない。とちらかが一回がまんしなきゃ。どちらが、というと、強い方が>>

<ばかは死ななきゃ直らない>
 イラク戦争(侵略)中のブッシュの演説を聞いて、おっさんもう狂っとるな、という認識を持ったヒトも多いはず。そう、あの「DAY BY DAY we are closer to VICTORY・・・・」ってスピーチ。
ギリシャ悲劇のナレーション・あるいは何かの叙事詩でも読んでるつもりか。お前が最前線行けよ、って誰もが思うようなアホの権力者ならではの膨大な人的・そして文字どうりコストのかかる大戦争をやってる責任者とは思えないような現実感にまるで乏しい物言いだ。自爆テロで死んでる米軍兵士もこれじゃ浮かばれない。キリスト教をしっかり信じてるから死んだ彼らは「神に召された」ということになるのだろうか。違うと思う。神を殺した近代ヨーロッパ人の末裔がアメリカ人と云ってもいいわけだから、それは当らない。ある意味ぼくたち日本人の無宗教・神様=お金、な身もフタもない宗教的感性と敬けんなクリスチャンの「間のどこか」って感じだろうと思われる。となると、強烈なアッラ−信仰者にかなうわけがない。モチベーション違い過ぎるもん。だからたとえ「形の上で」戦争に勝ったとしてもその後ブッシュおよびアメリカ・ネオ・コンサヴァティヴのやつらの思い通りにはいかんと思う。しかし、なんて傲慢なんでしょう、ネオ・コンのばかたち。


 そして形の上では戦争に勝ったことになってるアメリカですけど、この全世界を覆う無力感の責任はブッシュが取ってくれるっていうのか。そして、ちょっと聞くが、この戦争の大義であるところの大量破壊兵器、見つけたんかい?!!!実際にさ〜あ、大量破壊兵器をイラクが持たないという確信があったにもかかわらず、それを大義としてイラク攻撃がなされたってことがはっきりした今、戦闘で死んだ人々への責任はだれが取るのだろう。そしてそれを支持した小泉くんと、それを支持している日本の国民はどんな顔してイラクの人々に顔向けできるのか?おれは、どーしたらいいのかわからない。国と国民ひとりひとりは重なりあうこともそうじゃないこともあることを強調しときたい。

 先程云ったモチベーションの問題だけど、あっさり逃げやがった、フセインの兵士たち。それはイラク兵じゃなくもっと汎イスラム的な話かもしれない。アメリカ国内ではキリスト教原理主義が台頭してきていて、それは先述の、世界をアメリカにしてしまいたいネオ・コンとともにブッシュを支える二大コンセプト/勢力だ。脱線するが「ネオ・なんとか」ってのにロクなものはない。ネオ・ナチ、ネオ・アコ、ネオ・ソフト。「新」という接頭語をつけて古めかしいコンセプトを再生させようなんてのはある種のノスタルジーと目新しさを混同させてアホの目をくらます常套手段だ。新・加勢大周ってのもいたけど。存在自体ギャグだけど。そんなものにだまされないように、みなさん。
 そのキリスト教原理主義ってのが、おれ、すごく気味が悪い。「正しすぎる」のだ。なんだか昔のPTAのおばさんを彷佛とさせるようなそんな感じ。もちろん「原理主義者」だから聖書に忠実に、なんだからしょうがないけど、正し過ぎる=狂ってくる、という図式がそこにはある。もちろんき○がいは自分のことをき×がいだと思っちゃいないわけで、そんな感じ。何かに忠実すぎるってのはある意味思考停止のことだから、本人としてはこんなに楽なこともないんだろう。ただ、それが仮にも「自由」を標榜する国アメリカで起こってるってのがぼくには興味ぶかい。結局、ヒトは過剰なる大脳皮質を持て余してるってことになる。ほとんどのヒトっていうのは、そんなに複雑なことはそうそう考えとられんのだ。何かシンプルな公式を盲信して生きていく方がやっぱしラクなのね。「自由」に物事えらんでいいよー、って言われて「不自由/束縛」を選ぶなんて皮肉の極致だが、それを揶揄したとするなら、「不自由/束縛」を選ぶ「自由」がワタシたちにはあるーなんて逆ギレされそうだ。もっとも、それが本人たちは「不自由/束縛」とは思っとらん証拠なわけなのね。
 大衆というものがこんなにチカラを持っちゃっていいんだろうか?いやもっと正確にいうとみんながこんなに一個の尊重されるべき人格/人権をもった人間として発言権をもつほど、みんなは成熟しているんだろうか?
おれは少しまだ「早い」んじゃないか、と思う。

posted by おれ at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | イスラムvs・・・・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月08日

ヒトの片肺飛行

《ヒトの片肺飛行について》
 左肺が破れちゃった。自然気胸という「病気持ち」だったんでした、おれ。忘れてた。この病気に関して、もう実はけっこう「プロ」でして、通算20回ぐらいはやっちゃってるかなあ。かれこれ20年以上の付き合いになる。右が破れることが多いんだけど今回は左がイっちゃった。あ、今破れるなんて穏やかではない表現をしましたが、正確には、肺胞の中の弱いところ(これを「ブラ」という)がなにかの拍子に破裂してしまうっちゅうわけなのよ(おんなじか?)。
 
 そこから空気が出てしまう。その空気の出がいつ止まるかというのが実は死活問題で、いや、ほんとに、だって全部出ちゃうと肺はなくなってしまう、まだ左右両方あるからいいようなものの、もしかして、ほんとにもしかだけど、両方同時に破れて、最後まで空気が出尽くしてしまえば、おれってやっぱ「一貫の終わり」。

 最初に3週間ほど入院したんだけど、悩んだ。18の頃ですけど。その後、十数度そんなことがあって、入院も何度かして、で、もうだいたい、この破れはどれくらいで、空気はどれくらい出てて、全治何週間なんてことがわかるようになってきた。へんな話、自分でこりゃ「エマ−ジャンシ−」かどうかがわかる。どれくらい空気がでてるかもわかる。

 この病気の大変なとこは、他は無茶苦茶元気なのに、安静にしとかなきゃいけないところ。でね、それだけじゃなくて、やっぱり痛いのよ、これが。なぜか?外に出た空気は胸膜と今はもう閉じてしまった肺の間に溜まる。これが胸膜と肺を圧迫する。ものすごくいたいんだ。そして気持ち悪いのは、空気は軽いから、寝返りをうつたびに、上の方に移動するわけ。つまり右を下に寝ると、左側、左を下に寝ると右へ、という風に動く。これが自分の肺自体がグルグル動いてる感じなわけ。最初の何日間はその痛さと不快感に耐えなきゃなんない。手術をしないなら、その溜まった空気を肺が吸収するのを気長に待つしかない、安静にして。手術をしてもぼくみたいにあっちこっちが破れたりするやつは、体中傷だらけになるよね。だから観念して待つしかない。

 一番初めに入院したときなど、待てど暮らせど吸収が遅くて、もうこれ以上待ってると水が溜まるおそれがあるという理由で、背中に「チョク!」で注射針を差し込んで空気を抜いた。ギョエ〜、でしょう。あまりの直截的・物理的な方法でおれ、くら〜ってなったもん。今そういうわけで闘病中ですから、社会復帰後、会ったひとは「優しく」してくださいね。

<<こういうのを持病というのだろうか。これ、でも、不思議にもんのすごいしんどい目に合ってるときは出なくて、それが終わってほっとしたときに決まって出る。延々ハードでいとけっちゅうことか。殺生だ>>
posted by おれ at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | びょーき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

5年前、初夏のあの日

<SLAPP HAPPYを見に京大西部講堂にいってきた>

 うっかりしてた。前売買うの忙しさにかまけて忘れてた。気が付いたのが土曜の午後で招聘元に連絡したら日曜当日の二時から現場で当日券を売るということだった。そ〜か、ということでおれはハラ決めて土曜はお店ぶっちして当日に備えたわけ。

 それにしても、西部講堂である。こんなに、スラップ ハッピ−の、ほぼ誰もが信じていなかった初来日にぴったりな場所ってあるだろうか?パララックスレコ−ドの人々ほんとにえらいぞ。その場所・語るに多すぎる逸話があまりに濃厚に貼り付き、一時はぼくもなんとなくヘヴィ過ぎた感も否めなかったけどバブル期も終わり、この出口のない経済的・文化的・時代的閉塞感のなかでもう一度地に足の付いた生活を取り戻すべく試行錯誤が始まったこの時期に70年代的価値観の再評価(ただ懐かしむだけじゃなく)気運が自分の中で高まってる今、こんなタイムリ−なことはなく、まずそれがうれしかった。その西部講堂。A DECADE−IN FAKE時代に一度だけ出演したことがある。ぼくらのさらに上の世代になる、村八分とかウエストロ−ド・ブル−スバンドなどの、当時でさえも十分、時代がかったエピソ−ドに彩られたそのステ−ジというのはぼくにも妙な緊張感をもたらしたことを忘れてはいない。あれから15年。スラップ ハッピ−の最初の録音がおわったのが1973年だから(世にでたのは80年)、それからすると四半世紀。しかし、その音楽は古くなるなんてことはこれっぽっちもなく時代時代の<最先端>の音を小馬鹿にするかのようなしなやかさでどんどん支持者を獲得していき、このぼくだって総てのアルバムの中で人生のベスト10に入ってるもん。様々な虚飾や売らんがための、時代とリンクした旬のキャッチコピ−に代表される「なんか虚しいもの」が単に経済がダウンしただけでそれらすべてがバカみたいに思えて、カルイ気持ちでフッと吹いてみたら、それは実は砂でできていてあっという間に吹き飛ばされてしまい、後には虫の死骸がありました的な「商品」の空虚さ、もっとマシなもんないんかい、求めることが、その物語の経済学が成り立たない時代の、それらのネガティヴとは無関係のその音楽自体にすべてが込められた、純粋でしなやかなもの。それがスラップ ハッピ−なのだ。

 309で名神をトバして千本通りから四条通り、堀川通りを北上し、今出川から百万遍をちょこっと下って西部講堂へ。「あの時のままの」姿でそれはそこにあった。水溜まりは当時よりひどくなってた。チケットを手に入れ、クルマを止める場所を探しとこうと思ってうろうろする。うろうろしているうちに「哲学の道」の入り口に着いてしまった。クルマを適当に止めて、歩こうと思った。観光客に混じって疏水横を歩く。日が陰って適度にひんやりしていて、ものを自然に考えるようになる。さすがは哲学の道。歩いているうちに、ある既視感にまとわりつかれた。なんだったかなあ、と考えながらさらに歩く。思い出した。玉川上水に似てるのだ。太宰治が入水自殺をした玉川上水。あるいは歩いている時の精神状態がより似通っていたのかもしれない。ともあれ、ある種の切なさを精神に喚起させる場だった。

 東寺で市が立っていたのを思い出したので309をとばす。京都は街全体がコンパクトだ。15分ほどで東寺へ。ところが困った。駐めるところがないのである。おまわりもたくさん立ってる。どうしょうかなあ、と思ってうろうろしてたら、ヒラメいた。行ってみたら全空きだった。さてそれは一体どこでしょう?某映画館駐車場です。すぐわかっちゃうね。で、そこに悠然と309を駐めて、もう畳み掛けてる店もあったけどシャツとお店用の三日月を手に入れた。スラップ ハッピ−は7:30だったからもう少し時間がある。某映画館には「ALL ABOUT MY MOTHER」の看板がかかってて、「おっ」と思ったが、まだだった。

 考え事をする。「哲学の道シンドロ−ム」から抜け出せてないわけね。

 自然と本日のライヴに考えが及ぶ。どんな形態で演るのか?サポ−トの人間はいるのか?チケットを買いに行ったときちょうど「その頃、子供だった」をリハ中で、しかし、あれではエクストラ・メンバ−がいるかどうかわかんなかったしなあ。ひょっとしてドラムはクリス・カトラ−だったりして。妄想はどこまでも膨らむ。

 もうほとんどっていっちゃっていいほど他人のライヴを見にいってないし、なんとなく食指が動かんというか、進行形でかっこいいことを「やり続けてる」やつが今はもうおらん時代というか、単にノスタルジックな心情につけこんで昔の名前で商売してるおじさんばっかで、そんなものはリアルタイムをしらんワカモノには通用するかもしれないけど、もうちょっとは若いがやはりおじさんであるおれにはアホらしいというのが実感。クラプトンなどを聞きにいって涙ながしてたり、思わず両手突き上げてたりして、業界バカ親父の典型ですが、そんなものとはごめんだけど無縁のおれは、「実験だけどポップ、ふざけてるけど泣く、うまいのにアマチュアリズム満載」やっぱこ〜ゆ〜のでないと時間の無駄というわけなのだ。

 そろそろいかなきゃ。さっき通った道を再度進んで、百万遍へ。うまい具合にさっき目星を付けておいた路駐ポイント#2が空いていた。西部講堂内はなんだかみんな息を飲むという表現がぴったりで、つい一ヵ月前までは信じられなかったような出来事に遭遇するわけだからそりゃそうか、それが3人が(3人だった!)出てきた瞬間に拍手が堰を切ったかのように沸き起こり、彼らは、フロントアクトがあったらしいから、所定の位置につき、もう一度軽く音をだして、チェック。ピ−タ−・ブレックヴァドがむちゃでかい。2mはあるなあ。アンソニ−・ム−アはちょっと太ったなあ。そしてダグマ−・クラウゼは随分と柔らかい感じ。だって最初は「魔女」みたいな人だったからね。しかし魔女のあの声にみんなヤラレちゃってたのだ。一曲目は、世界のちゃんとした耳をもった総てのリスナ−がこの曲を聞いてスラップ・ハッピ−の世界に出会ったのだ、casablanca moonからそれは始まったし、今もそうなのだ。ダグマ−の声は、初期の頃の魔女のそれではなく、新しいアルバムでも聞かれたようなやさしいもので、自分の声による自分の名曲のカヴァ−ともいえる。四半世紀ともなると、体中の全細胞、5・6回は入れ替わってるわけだしね。あのファ−ストの素晴らしい曲が時間を超えて再現されていく。思い入れのある聴衆が9割以上いるのが曲終わりの拍手のリキと長さから伝わってくる。おれもいつまでも拍手しときたかった。今はケルンの大学の実験音楽の教授でもあるアンソニ−・ム−ア。おもむろに電気髭剃を持ってでてくる。ピ−タ−が「アンソニ−がこれから髭をそります」なんてことを言ってる。ダグマ−はアンソニ−のキ−ボ−ドの前にいって、何が始まるのかと思えば、髭剃をマイク前で揺らして、リズムを作ってる。教授〜ぅ!それっておれが、トドムンドのみんなに箸持たせて、グラスやら皿叩かしてるのとコンセプトはそう変わらんでしょ。もちろん教授だからリズムはズレないけどさ。ピ−タ−はギタ−ものすごく上手い。でも上手いのと決められたことを決められたようにやるのとは別の問題だ。ある曲でイントロから歌にいくところ、なんか気にいらんかったみたいで、ブツブツいいながら演奏止めちゃった。で、もう一回アタマから。そんなのがたまらなく好きなおれは嬉しくってしょうがない。アメリカ型の、ということは日本芸能界型のコンサ−トではこんなことはユルされないでしょ。ショ−などという概念がその音楽家の実力を超えて作用するとき、それは世にも醜悪な音圧の暴力的押しつけになってしまう。楽しむことを強要するようなシカケ、そんなものはツマラなくってしょうがないんだけども、そんなシカケで「かんど〜したあ」なんちゃってるバカが星の数ほどいるから話はややこしいんだけども、なあんにも知らないでおわるヒトタチにはおれは何らかの慈悲をかけてあげるほどヒマでもないので、彼らには、点々のついたイエエって掛け声とともにデルタ宇宙域へでも行ってもらうことにして、今は最重要音楽家のライヴなのだ。その現場においては汚らしいイエエなんていってるバカは一人もいなかった。幸せだ。

 三人ともすがすがしくも美しい。完璧に素晴らしい曲を三人だけのチカラで能力総動員で(その能力ってのが高いんだけどね)がんばってやってる。バンドサウンドを打楽器なしでやるってそばで見てるほど簡単なことじゃない。ピ−タ−のギタ−はほんとスバラシイ。ム−ア教授がEGを持ってピ−タ−が「昔子供の頃、ファ−ストを録音してるころだけどね、ヴェルヴェット・アンダ−グラウンドみたいなロックン・ロ−ルをやりたくてよくこんなことをやってたんだ」という注釈つきで始まった2コ−ドのハモリが本家そっくりの曲なんて、ドラムもベ−スもいないのにあのグル−ヴ(groove)感。おれもがんばろうと思ったよ。でもさあ、「子供」があんなアルバムつくられへんやろう、しかし。

 約20曲・2時間。至福の時は終わろうとしている。2回目のアンコ−ルのときにピ−タ−・ブレックヴァドがタバコ喫ってたのが、おれはなんだかやけに嬉しかったよ。非芸能界的なものと健康志向はどうも相容れない感じがしてたんだ。なんかちょっと安心した。つまんないことだけどね。

 西部講堂でほんとによかった。うしろの映像も控えめで、やっぱり音楽家は音楽そのもので勝負しましょう、と思ったよ。

 入り口近くだったから、終わると同時にダッシュで309んとこまで行って、きっと知り合いも来てたと思うんだけど、それについてお話はなんか、批評めいたことを口にするのは憚れた。171を「そこそこ」ぶっとばして大阪へと帰って来た。その日は京都南部で震度3の揺れがあった日だったけど、終わりは心の中のある部分が微かに揺れているだけだった。その揺れの振幅を大きくしていくことがぼくのスラップ・ハッピ−へのお返しだ。

<<実は、前川くんが当日のPAをやってて、それを一月ほどあとに聞いて、なんや、そーかー、といってたのを思い出した。前川君はその何年か前、クアトロでTELEVISIONのトム・ヴァーレインもやってて、その時もぼくは現場にいた。彼はパンク世代であるからか、この2アーティストをPAしたことがが自らのエポックである、と言っている>>
posted by おれ at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | music関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月06日

体操のおねえさんに関する考察その2

<体操のおねえさんに関する考察その2>

 座って体操してるおねえさんがいる。老人や足の不自由な方のため、というのはわかる。でもそんなに上半身ぐらぐらにしなきゃいかんのか?おねえさん、その動きはヤバイよ。どこかからクレ−ム来てない?どうも心配だ。
posted by おれ at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 体操のおねえさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

DIAS com Peugeot 309GTi e AlfaRomeo 75v6milano

DIAS com Peugeot 309GTi
   e   AlfaRomeo 75v6milano

 そろそろ、クルマでどっか出掛けたくなってきた。西高東低の気圧配置もなんか最近パワ−不足なのは知ってるぞ。ヨ−スコ−気団から別れてふらふら日本の方にやってくる移動性高気圧が暖かさをもたらす。そしてヤル気とアホ化をぼくに同時にもたらす。こんなときは朝早く、まだ暗いうちに起きだして、シャワ−浴びて、クルマでどっか行く。なるべく遠いところへ行く。もちろんひとりで行く。こんなときにオンナは邪魔である。その日は明け方やっぱり冬の名残りでかなり冷える。だからシャワ−を浴びたこともあって、冷えないように駐車場までは完全防備で行く。309のエンジンに火を入れてしばらくクルマを暖める。地図を取出し眺めてみる。瞬時に幾つかプランが頭の中に渦を巻くが、どれも経験済みで新鮮味に欠けた。手付かずの一日には手付かずのル−トがいい。さすがはだれもが天才になれる明け方で、気にはなっていながら未だ走ったことのないル−トを思いつく。その頃には、クルマもアイドリングにより、十分臨戦態勢を整えて、オ−ト・チョ−クがかかって1500回転まで回転数を上げている。馬でいうと鼻息荒い状態。どうどう。ちょっと待ってろよ。タイヤを鳴かせて急発進。ステアリングも乱暴に切っちゃう。高速にのるまでの路がこれまた空いていてすいすいと追越し車線をとばす。短いトンネルをぬけると高速の入り口、いつもはシ−ト・ベルト自分チェックするんだけど、今日は大丈夫。こんな時間おまわりも仕事してないのだ。ずっとサボっててもいいんだよ。もっと善良な市民の生活で守んなきゃいけないことたくさんあるでしょ。
 西へ西へと進む。知り合いの住んでる街をずんずん越していく。ここはあのこ、ここはあのこと心のすみっこでグリ−ティングをしながら容赦なくガス・ペダルを踏み込む。比較的新しい高速だから、カ−ヴのRもよく考えられていて、前の見え方が名神みたいにイヤなかんじじゃない。幅だってひろいしね。バックミラ−に映る東のそらが朱色に染まってきた。今日は絶対いい天気にならなきゃいかんのだ。あの人に5年ぶりに会いにいくんだから。で、休みもせず、走りに走った400km。
 400kmって一口にいっても、おれ高速あんまり好きじゃないから割りとコタエタ。千代田ICから浜田自動車道へ入って、石見という町にそのヒトは住んでいた。突然の訪問だったから「うそ−っ!?」ってドア越しに叫ばれた。そりゃそうですね。PG時代の先輩で、外資系企業のPRESIDENT/VICE PRESIDENT/DIRECTORクラスの人々の秘書を5社7人ほどやって突然、「田舎に住む宣言」をなさって、その高給生活を捨てそこでもう5年ほどになるのだった。京都の万亀楼の花板だった人がUタ−ンしてその町で造った万喜楼という割烹で昼メシをごちそうになり、そこから「おいしいコ−ヒ−はないわよ」ということで、ハ−ブ・ティ−を飲みに連れていかれたところ、レモン・グラスのフレッシュ・ハ−ブにハマってしまい、4ハイおかわりしちゃったおれを「相変わらずねえ」とやさしい目で見守ってくれる様子などは、GRASSだのPASHUだのを着てナメて会社行って上司に顰蹙買ってた時代にタイム・スリップしてしまうに十分な要素なわけだった。
 日帰りで帰るってきめてたから、夜の高速もあんまり好きじゃないし、5時頃には石見を発った。帰りの高速はなんか右目の調子が悪く、当たり前だけど暮れてきてちょっと辛かったけど、気分は良かった。深夜に帰宅した。309ほんとにいいクルマだ。
 実はその時、90000kmを目前にオドメ−タ−が止まってしまった。正確にいうと89999kmから90000kmにイコウとするんだがイケない。イキそうなんだけどイカない。イキたいんだけどイケない。そんなつらいことはないだろう、可哀相に。オトコとしては忍びなかったので、車屋のおっちゃんとこへ翌日いったらインパネ部分をバラしにバラして直してくれた。スコ−ンと「抜けた」309だからこれからもまたガンガン走ってくれるに違いない。ただいま絶好調だし。だってヒロシのインテグラ−レがついてこれんぐらいだもん。
posted by おれ at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | プジョー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月04日

'01夏

 気が狂うんじゃないかってぐらいのアツサじゃない?6月ですでに36度ってこりゃいったいなんなんだよ。今は7月だけどもうあの時点で梅雨は空けとったなあ、ってポイントあったよね。おれはこれから夏期講習という時間帯に突入だけど、以前のような怒濤のなんとか、みたいな感じでは最近はなくて、でもやっぱ、しんどいことはしんどいんだけど、その日のおとしまえつけるために今日も肉喰ってやるう!なんてことはなくなった。今回は久しぶりに FANDANGOで8/19(日)にライヴありますのでそのことを少し。
 
 FANDANGOというライヴハウスは十三にあってもう出来て15年以上経つと思う。ぼくは出来て2ヶ月目ぐらいから出てる。多分今でも出演時間数でいうと最多ではないかなあ。バナナやクアトロなどの少し大きめのハコとは違って自由で昔はほんと好き放題やってた。その好き放題に大喜びするねーさんがいて、それが初代店長のムーちゃんだった。ただただかっこいいだけの今考えるとおれとしてはちょっといただけないって感じの A Decade−IN FAKE時代よりも日本発/日本初のSALSA ROCKをやってた、SONNA−BANANAん時の盛り上がりってすごかった。ぼくらの「パンキーズーク」というリズムはそれはそれはもう半端じゃなく強烈だったからさ、8ビートのノリとは違うからさ、それにガイジン率も高くてそいつらにウケルウケル、そんな中おれたちもアツクなってライヴの後半ともなるとね、おれも、キタバヤシもカオルちゃんもシーラも、イッチャウやつはどこまでもイッチャウわけよ。でね、それに異常に反応してくれるのが前述のムーちゃんなわけ。知らん間に安定の悪いファンダンゴのテーブルに乗ってチチがはみでようがパンツ見えようがおかまいなしの大暴れ。いやーパワーあったよなあ。そしてそれを見た、おれもさらに激しくアオっていく。そんなこんなで夜の一時ぐらいまでやってたことがあった。3時間4時間なんて当たり前で、過剰なんですけどもともとね、でも、ヤリたいときがウマいとき、なセオリーをほんとによくわかってくれるお店とスタッフというのが当時の十三ファンダンゴだったわけ。先程述べた出演時間数最多なんてのも、出た回数もさることながら、一回のライヴで他のバンドの3回分ぐらいやっちゃうんだからさ、しょうがないよね。当時は東京とか名古屋にもよく呼ばれて行ってたりしたけど、やっぱりソンナバナナはファンダンゴまでわざわざ見にいかなくちゃっていうのが定説だった。東京だと対バンだし、50分で終わって下さいね、なんて感じだったからね。50分経ってやっとカラダあったまってくるって感じなのにね。今メジャー行ってるやつにも当時のおれたちのファンは結構多い。モダチョキのまりちゃんとか。松本(ウルフルズ)も必ずアンコールのときは現れて一番前にいた。カオルちゃんのギターのファンだったのかな。音楽やってるやつだったらきっと無視できないことをやってたソンナバナナだったが、しかし、メジャーにはウケが悪かったよね。先に進み過ぎてたことがひとつと、おれがアホにえらそうにいわれるとすぐカオに出てたからね。おれがリーダーじゃなかったらよかったのかもね。バンドのみんなごめんなさい。
 
 そんなファンダンゴも今では随分こじんまりとしちゃったんだけど、それでもなおファンダンゴはファンダンゴであるはずなので、音楽的友人たちとの久しぶりのちょっとアバレ、楽しみです。

<<今年'05は、ということは丸20年くらいになるんじゃないかな。しーちゃんのお母さんも歳とるはずやね>>
posted by おれ at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | music関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月01日

クソアツイ夏・五年前

◎湿気&クソ暑い今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?

 大阪の夏・日本の夏・キンチョ−の夏。ほとんど東南アジアとかわらんこの海洋性の高気圧張り出した夏は最近特にコタエル。年のせいだろうか。かつてのオナニ−も知らなかった時代のあの<黄金の夏休み>な夏というのはもう戻ってこないのだろうか。とすればサミシイ。みんなは夏・子供の頃の夏はどんな風に過ごしていたんでしょうか。オトコというか男子の栄光の時代はやっぱり小学校時代だ。ぼくの場合は少なくともそうだった。しかし、ぼくはいわゆる男の子の遊びがあんまり好きじゃなく、それは今オトナになってからもだいたいのオトコがハマる釣りとかキャンプとかに全然興味がないことからもよくわかる。何がいったい楽しいの?ってきこうとして、自分が少数派であることをふとそこで気付く。精神上で遠くに行けないヒトビトが物理的に遠くに行こうとしてやってるのがその釣りやキャンプ、いわゆるアウトドア男たちなのではないか、とニラんでる。

 また、そんなこと言って、ヒネクレもの。と思われるかもしれない。そうかもしれない。でもみんながやることを追っ掛けるほどおれもいまんとこヒマでもないし、考えてることがみんなとは(これはおれにかかわらずすべてのひとにいえることだけどさ)きっと違うはずなのに行動がおんなじっちゅうのはなんで?と思いませんか。

 子供でいたい、ってもうこんなイイ年こいていうのもそもそもおかしいし、それを望んでいるわけでもない。ただヒトには社会との摩擦・軋轢用の精神的部分と、それには使いたくない部分があるでしょ。それに使いたくない部分の『あそび』をせんとやおもひけむ部分に工夫がないとおもんない。今、どんな仕事だって代わりの者はいる。そんな仕事に命(ことばどおりの命という意味も含む)懸けて、全精力使い果たしちゃってて、残った時間にやることといったら、遊びのマニュアルのあることなんてのはつまんなくない?あ今の文章、前半はぼくらから上の世代・後半はぼくより下の世代にあてはまりそうだ。

 今日は選挙の日だった。ぼくはまたまたいきませんでした。せっかく政治を変える(しかもあなたの手で)チャンスなのに投票にいかんヤツはダメなやつ、みたいな論調が支配的です。反論は敢えてノ−ガ−ドで受けるとして、おれの意見をちょっとだけ言うとですね。どれも嫌いな場合はどうするのか?どれも嫌いなひとでもどれか「より嫌いでないもの」を選ぶ義務を果たす必要があるのか?その嫌い度において(無論これは一選挙権保持者として)よく吟味した結果どちらの側の利益も幇助することがとんでもなく嫌な場合、そのとんでもなく嫌度を示す方法で棄権以外の有効な方法がある人はどうか教えてほしい。「とりあえずう、何人かあ、いるんだけどお、どれもお、イマイチなんだけどお、しばらくのお、つなぎってえ、かんじでえ、このコとお、つきあっとこっかなあっと。」っていうバカオンナになれっちゅうのとあんましかわらん気がしてる。「そんなんで〜え、ほんとにい〜の〜お?」って、こんどはおれが質問します。いわゆるなんの組織にも属していないひと(いわゆる無党派層)の投票がない場合、組織票に大負けしちゃうというのはわかる。ではその組織票というものが存在することに対する原理的な批判、つまり個人の意志の絶対性の揺らぎ、つまり「ほんまにきみの意志で投票してんの?」という程度のもので政治の枠組みが決まってしまう愚かさ、しかしその方法が唯一の良い方法だというぼくたちの歴史的認識に対する全体主義以外のオルタナティヴの提示に関する議論がないままに政治情況だけでなく政治風土まで現状維持したままの選挙というものに虫酸が走る人々の精神的ケアはどないすんねん?以上。言いたいこと終わり。

 オトナも子供もバカはただ騒ぎたいだけ、という気がする。そんなバカ騒ぎがイヤんなっちゃったやつ、内省的になっちゃったやつのための、表現が、人殺しという方向がなんだかもう「道が」できちゃった気がすんのがぼくとしては気が重い、滅入る。その表現は「安易で稚拙」だ。ものごとをじっくり考えてると「遅れてしまう」、人より早く物事を始めたほうがイイ目にあえる、いそがなきゃっていう、アムウェイ的な考えが支配的だった5年くらい前までのこの日本という国のノリのつけを支払わせられてる気がしてる。

 とすれば、しょうがないのか?大きなものが小さなものをイジメる。小さなものはもっと小さなものをイジメる。大体そんな構図が多くて、ゲロゲロなことはかりだけど岡山の高校生の事件、なんかぼくは結構感情移入してしまった。年下のしかし、集団での精神的・肉体的ハラスメントに対して、バットで殴ったってのはこころの中で実はぼくは喝采を送ってる。それは他の事件のような、自分が弱者であることを認め、それに甘え、そしてある種の欲望を自分よりもより弱い者に向けた、というのとはちょっと違うからだ。同じ17才だからってことでいっしょくたにしてしまうのはオトナの怠慢だとおもう。彼はイジメられてたみたいだし、それに対してその当事者と闘ったわけだからそれはきっとあとから情況の中でこれは効いてくる、と思う。もっとわかりやすく云おう。イジメる側は、今後はその相手がキレたら殺されるかもしんないっちゅうリスクを背負うってことだ。そこでは集団の優位性は凶器を持つ相手には機能しないからね。おれはその岡山の彼は好きだ。ママを殺しちゃったっていうのも、これは見方を変えるとまだその家庭は家庭の機能がかろうじて残ってた証拠だ。そのあとのママの辛さを解消するためにっていうのもある意味泣かせる。そこにはすでに崩壊してしまったはずの「愛」とか「家族」の名残りが見て取れる。これはギリシャ悲劇的悲劇だと思う。古典的な悲劇。そのあと「北」へ向かったというのもいい。なんか昭和の匂いがするっていうか。大体昔(ちょっと昔も含めて)から止むに止まれず罪を犯してしまった者は「北」へ向かったのだ。

 ぜひ彼には更正してもらいたい。いや、きっとできると思う。

 
posted by おれ at 09:56| Comment(1) | TrackBack(1) | 社会的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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