2005年07月07日

5年前、初夏のあの日

<SLAPP HAPPYを見に京大西部講堂にいってきた>

 うっかりしてた。前売買うの忙しさにかまけて忘れてた。気が付いたのが土曜の午後で招聘元に連絡したら日曜当日の二時から現場で当日券を売るということだった。そ〜か、ということでおれはハラ決めて土曜はお店ぶっちして当日に備えたわけ。

 それにしても、西部講堂である。こんなに、スラップ ハッピ−の、ほぼ誰もが信じていなかった初来日にぴったりな場所ってあるだろうか?パララックスレコ−ドの人々ほんとにえらいぞ。その場所・語るに多すぎる逸話があまりに濃厚に貼り付き、一時はぼくもなんとなくヘヴィ過ぎた感も否めなかったけどバブル期も終わり、この出口のない経済的・文化的・時代的閉塞感のなかでもう一度地に足の付いた生活を取り戻すべく試行錯誤が始まったこの時期に70年代的価値観の再評価(ただ懐かしむだけじゃなく)気運が自分の中で高まってる今、こんなタイムリ−なことはなく、まずそれがうれしかった。その西部講堂。A DECADE−IN FAKE時代に一度だけ出演したことがある。ぼくらのさらに上の世代になる、村八分とかウエストロ−ド・ブル−スバンドなどの、当時でさえも十分、時代がかったエピソ−ドに彩られたそのステ−ジというのはぼくにも妙な緊張感をもたらしたことを忘れてはいない。あれから15年。スラップ ハッピ−の最初の録音がおわったのが1973年だから(世にでたのは80年)、それからすると四半世紀。しかし、その音楽は古くなるなんてことはこれっぽっちもなく時代時代の<最先端>の音を小馬鹿にするかのようなしなやかさでどんどん支持者を獲得していき、このぼくだって総てのアルバムの中で人生のベスト10に入ってるもん。様々な虚飾や売らんがための、時代とリンクした旬のキャッチコピ−に代表される「なんか虚しいもの」が単に経済がダウンしただけでそれらすべてがバカみたいに思えて、カルイ気持ちでフッと吹いてみたら、それは実は砂でできていてあっという間に吹き飛ばされてしまい、後には虫の死骸がありました的な「商品」の空虚さ、もっとマシなもんないんかい、求めることが、その物語の経済学が成り立たない時代の、それらのネガティヴとは無関係のその音楽自体にすべてが込められた、純粋でしなやかなもの。それがスラップ ハッピ−なのだ。

 309で名神をトバして千本通りから四条通り、堀川通りを北上し、今出川から百万遍をちょこっと下って西部講堂へ。「あの時のままの」姿でそれはそこにあった。水溜まりは当時よりひどくなってた。チケットを手に入れ、クルマを止める場所を探しとこうと思ってうろうろする。うろうろしているうちに「哲学の道」の入り口に着いてしまった。クルマを適当に止めて、歩こうと思った。観光客に混じって疏水横を歩く。日が陰って適度にひんやりしていて、ものを自然に考えるようになる。さすがは哲学の道。歩いているうちに、ある既視感にまとわりつかれた。なんだったかなあ、と考えながらさらに歩く。思い出した。玉川上水に似てるのだ。太宰治が入水自殺をした玉川上水。あるいは歩いている時の精神状態がより似通っていたのかもしれない。ともあれ、ある種の切なさを精神に喚起させる場だった。

 東寺で市が立っていたのを思い出したので309をとばす。京都は街全体がコンパクトだ。15分ほどで東寺へ。ところが困った。駐めるところがないのである。おまわりもたくさん立ってる。どうしょうかなあ、と思ってうろうろしてたら、ヒラメいた。行ってみたら全空きだった。さてそれは一体どこでしょう?某映画館駐車場です。すぐわかっちゃうね。で、そこに悠然と309を駐めて、もう畳み掛けてる店もあったけどシャツとお店用の三日月を手に入れた。スラップ ハッピ−は7:30だったからもう少し時間がある。某映画館には「ALL ABOUT MY MOTHER」の看板がかかってて、「おっ」と思ったが、まだだった。

 考え事をする。「哲学の道シンドロ−ム」から抜け出せてないわけね。

 自然と本日のライヴに考えが及ぶ。どんな形態で演るのか?サポ−トの人間はいるのか?チケットを買いに行ったときちょうど「その頃、子供だった」をリハ中で、しかし、あれではエクストラ・メンバ−がいるかどうかわかんなかったしなあ。ひょっとしてドラムはクリス・カトラ−だったりして。妄想はどこまでも膨らむ。

 もうほとんどっていっちゃっていいほど他人のライヴを見にいってないし、なんとなく食指が動かんというか、進行形でかっこいいことを「やり続けてる」やつが今はもうおらん時代というか、単にノスタルジックな心情につけこんで昔の名前で商売してるおじさんばっかで、そんなものはリアルタイムをしらんワカモノには通用するかもしれないけど、もうちょっとは若いがやはりおじさんであるおれにはアホらしいというのが実感。クラプトンなどを聞きにいって涙ながしてたり、思わず両手突き上げてたりして、業界バカ親父の典型ですが、そんなものとはごめんだけど無縁のおれは、「実験だけどポップ、ふざけてるけど泣く、うまいのにアマチュアリズム満載」やっぱこ〜ゆ〜のでないと時間の無駄というわけなのだ。

 そろそろいかなきゃ。さっき通った道を再度進んで、百万遍へ。うまい具合にさっき目星を付けておいた路駐ポイント#2が空いていた。西部講堂内はなんだかみんな息を飲むという表現がぴったりで、つい一ヵ月前までは信じられなかったような出来事に遭遇するわけだからそりゃそうか、それが3人が(3人だった!)出てきた瞬間に拍手が堰を切ったかのように沸き起こり、彼らは、フロントアクトがあったらしいから、所定の位置につき、もう一度軽く音をだして、チェック。ピ−タ−・ブレックヴァドがむちゃでかい。2mはあるなあ。アンソニ−・ム−アはちょっと太ったなあ。そしてダグマ−・クラウゼは随分と柔らかい感じ。だって最初は「魔女」みたいな人だったからね。しかし魔女のあの声にみんなヤラレちゃってたのだ。一曲目は、世界のちゃんとした耳をもった総てのリスナ−がこの曲を聞いてスラップ・ハッピ−の世界に出会ったのだ、casablanca moonからそれは始まったし、今もそうなのだ。ダグマ−の声は、初期の頃の魔女のそれではなく、新しいアルバムでも聞かれたようなやさしいもので、自分の声による自分の名曲のカヴァ−ともいえる。四半世紀ともなると、体中の全細胞、5・6回は入れ替わってるわけだしね。あのファ−ストの素晴らしい曲が時間を超えて再現されていく。思い入れのある聴衆が9割以上いるのが曲終わりの拍手のリキと長さから伝わってくる。おれもいつまでも拍手しときたかった。今はケルンの大学の実験音楽の教授でもあるアンソニ−・ム−ア。おもむろに電気髭剃を持ってでてくる。ピ−タ−が「アンソニ−がこれから髭をそります」なんてことを言ってる。ダグマ−はアンソニ−のキ−ボ−ドの前にいって、何が始まるのかと思えば、髭剃をマイク前で揺らして、リズムを作ってる。教授〜ぅ!それっておれが、トドムンドのみんなに箸持たせて、グラスやら皿叩かしてるのとコンセプトはそう変わらんでしょ。もちろん教授だからリズムはズレないけどさ。ピ−タ−はギタ−ものすごく上手い。でも上手いのと決められたことを決められたようにやるのとは別の問題だ。ある曲でイントロから歌にいくところ、なんか気にいらんかったみたいで、ブツブツいいながら演奏止めちゃった。で、もう一回アタマから。そんなのがたまらなく好きなおれは嬉しくってしょうがない。アメリカ型の、ということは日本芸能界型のコンサ−トではこんなことはユルされないでしょ。ショ−などという概念がその音楽家の実力を超えて作用するとき、それは世にも醜悪な音圧の暴力的押しつけになってしまう。楽しむことを強要するようなシカケ、そんなものはツマラなくってしょうがないんだけども、そんなシカケで「かんど〜したあ」なんちゃってるバカが星の数ほどいるから話はややこしいんだけども、なあんにも知らないでおわるヒトタチにはおれは何らかの慈悲をかけてあげるほどヒマでもないので、彼らには、点々のついたイエエって掛け声とともにデルタ宇宙域へでも行ってもらうことにして、今は最重要音楽家のライヴなのだ。その現場においては汚らしいイエエなんていってるバカは一人もいなかった。幸せだ。

 三人ともすがすがしくも美しい。完璧に素晴らしい曲を三人だけのチカラで能力総動員で(その能力ってのが高いんだけどね)がんばってやってる。バンドサウンドを打楽器なしでやるってそばで見てるほど簡単なことじゃない。ピ−タ−のギタ−はほんとスバラシイ。ム−ア教授がEGを持ってピ−タ−が「昔子供の頃、ファ−ストを録音してるころだけどね、ヴェルヴェット・アンダ−グラウンドみたいなロックン・ロ−ルをやりたくてよくこんなことをやってたんだ」という注釈つきで始まった2コ−ドのハモリが本家そっくりの曲なんて、ドラムもベ−スもいないのにあのグル−ヴ(groove)感。おれもがんばろうと思ったよ。でもさあ、「子供」があんなアルバムつくられへんやろう、しかし。

 約20曲・2時間。至福の時は終わろうとしている。2回目のアンコ−ルのときにピ−タ−・ブレックヴァドがタバコ喫ってたのが、おれはなんだかやけに嬉しかったよ。非芸能界的なものと健康志向はどうも相容れない感じがしてたんだ。なんかちょっと安心した。つまんないことだけどね。

 西部講堂でほんとによかった。うしろの映像も控えめで、やっぱり音楽家は音楽そのもので勝負しましょう、と思ったよ。

 入り口近くだったから、終わると同時にダッシュで309んとこまで行って、きっと知り合いも来てたと思うんだけど、それについてお話はなんか、批評めいたことを口にするのは憚れた。171を「そこそこ」ぶっとばして大阪へと帰って来た。その日は京都南部で震度3の揺れがあった日だったけど、終わりは心の中のある部分が微かに揺れているだけだった。その揺れの振幅を大きくしていくことがぼくのスラップ・ハッピ−へのお返しだ。

<<実は、前川くんが当日のPAをやってて、それを一月ほどあとに聞いて、なんや、そーかー、といってたのを思い出した。前川君はその何年か前、クアトロでTELEVISIONのトム・ヴァーレインもやってて、その時もぼくは現場にいた。彼はパンク世代であるからか、この2アーティストをPAしたことがが自らのエポックである、と言っている>>
posted by おれ at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | music関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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