2005年11月29日

DAVID BARNE 4度目の来日 in2001

2002の新春号から。髪の毛真っ白けなってておどろいた。最近そのツアーのドイツかどこかのDVDミタキが手に入れたみたい。DAVID BARNEだよー。


 最初にみたのはFESTIVAL HALLだった。なんと前座がMELON。連れて来たギターはな・な・なんとエイドリアン・ブリュー。まさに最先端だった。ホント衝撃的だった。おれが24位の時。あの時の、なんかその見たことのないものが目の前で繰り広げられてる衝撃というものをうまく云う言葉をいまだ持てないのは残念でもあり、嬉しくもありというダブル・バインドはまだある種のパンク・ニューウェイヴのコンセプトがまだ有効を意味する証しでもあるからそれはそのままにしとこうと思う。あの時代の印象的なライヴというと、グレアム・パーカー&ルーモア、死ぬ3ヶ月前のボブ・マーリィ&ウェイラーズ、ステージ上でべーシストが宙に浮きながらプレイしてたアース・ウインド&ファイア、RCO ALL STARS(わからないと思うから云うけど、ザ・バンドのリヴォン・ヘルム・「スモール・タウン・トーク」の作者ボビィ・チャールズ、Dr.ジョン、リンゴ・スター、そしてリズム隊はブッカーT&MG's(これって極力サラッと云ってるけどさ、ギター/スティーヴ・クロッパー、ベース/ドナルド・ダック・ダン、って要するにオーティス・レディングのバックやで、ラッパ隊もコミで。いわゆるBLUES BROTHERSのヒトたちね)などですけど、新しさというか、次の次元を指し示していたのはなんといってもトーキング・ヘッヅだった。かつてのミュージシャンが見向きもしなかったような方法で音楽を成り立たせるというパラドックスを軽やかにやってのけてる、ってのがカッコよかったの。トーキング・ヘッヅは=デヴィッド・バーンだったし、なにもかもが誰もやったことのない新しさが彼の中には渦巻いていた。ぼくも常に目が離せなかったし、一体次にどんな展開をするのかってとても関心事だったから。当時はぼくの参加していたTANKS(A Decade-IN FAKEの前のバンド。拾得によくでてた。当時の店員が玉置とどんと、彼らはぼくのヘタ・フリーキーギターでばか盛り上がりしてた)はヘッヅのベースにしてる音楽=アメリカン・ルーツ・ミュージックのブラック寄りなとこと今思えば共通項がたくさんあるなあ。

 やっぱ時代の空気ってことだろうね。その後、アフリカ音楽とテクノの融合(原始と原子の融合なんてコンちゃんは云ってたなあ)の「あの」アルバムを出した頃、おれはなんとなく予感がしてた。テヴィッド・バーンがカール・フィンチの力を借りてTRUE STORIESを作った頃、世界の音楽に目を向けるべきだって、これは、テヴィッド・バーンにヒントをもらったんだけど、正確に云うと、なんだかモヤモヤしていた心境を言葉ですかっと言い表わされたってのが近い。で、そう思ったおれはニューヨーク・サルサに目がいったわけ。そしてウィリー・コロン(スキニー・パパのひとね)に出会い、最初は馴染まなかったんだけど、そのうちに何かがピピッと来て、気がついたらコンドル1とコンドル2が出来てたというわけ。おれたち=A Decade-IN FAKEは、いち早くそれをBOX RECORDからリリースし、これは嘘でも何でもなく、ワールド・ミュージックのある部分をいち早く消化した世界で最初のロックバンドになったわけ。あの「先端」なテヴィッド・バーンのラテンのアルバム「NAKED」はそれから約一年後の出来事だもん。おれはその時キタバヤシと「やっぱりデヴィッド・バーンもラテンいったな」って言い合ったものだった。 
 その後、向こうはスターだし、こちらはインディペンデント・ミュージシャンだけど、いつだってその動向は気になっていた。日本でそんなことやってもどうにもならないことは分かっていたんだけど、だって当時の日本なんてブルーハーツとかの時代だぜ。フォークソングの3コードにちょっとカッコだけパンクで速い8ビート、ギターはコードかき鳴らすだけベースは延々ルートのみ、そんなんをバックにただちょっとカラダが元気なやつがメロディーもないような恥ずかしい歌詞を飛んだりはねたりしながらガナってるなんていうお粗末なものだったんだよ。パンクの最も安易な部分の再生産と云う感じ。この国の音楽はそれ以来完璧バカのものになっちゃったわけね。そんなんにスリヨルなんておれのプライドが許さんでしょ、ドー考えてもサ。
 で、その後デヴィッド・バーンは世界音楽お勉強の旅へと出る。ブラジルのノルデスチ(北東)バイーアに長期滞在し、ラジオから流れる音楽をエア・チェックする日々が続く。アルト・リンゼイの協力も得ながらそうして出来上がった、素晴らしいコンピレイション・アルバムが「BELEZA TROPICAL」だ。その中にはカエターノ・ジル・ガル・マリア・ミルトン・ロ・ジョルジュ・シコなんていうとんでもない素晴らしいミュージシャンの曲が収められていたし、デヴィッド・バーン自体もそれに夢中になってしまったことがよくわかる。
バイーアのダンス・音楽であるFORRO(フォホー)のコンピレーション・アルバムまでも編集してしまう。その中には偉大の10乗ぐらいの値打はあるルイズ・ゴンザーガの曲が含まれていた。「ASA BLANCA」を聞いたり一緒に歌ったりして何度ぼくは泣いたことか。同時に自分の国に自国語で何のてらいもなくみんなで歌いあえる歌がないことにがく然とした。その時から自分はコスモポリタンになることを決定したわけさ、自分がそんな曲を作るまではね。そのうちに「NAKED」後のデヴィッド・バーンは「レイモモ」という問題作を発表する。あ、今問題作などと云ってしまいましたが、おれの中では「快作」だけど、当時の音楽メディア、特にミュージック・マガジンの、ロック側の人間じゃない「民族音楽原理主義者」とでもいえそうな連中にこてんぱんに叩かれた。特に田中勝則とかいう「お勉強好きなカッコ悪いばか」の論調がデヴィッド・バーンをまるで「ブルースマンを搾取する白人」というような構図に押し込めて大批判キャンペーンをやっちゃった。そんな中で行われた、2回目の来日公演、バックはNYサルサのバリバリの連中。「デヴィッド・バーンの歌と踊りさえなければ最高!」なんてタイトルで公演評が書かれていたのを思い出した。おれは大阪ではチケット手にはいんなくて、京都というか長岡のなんちゃら会館ってとこまで見にいった。で、どうだったか、というと・・・・・「素晴らしかった!!」としかいいようのないコンサートだった。その翌日、3 MUSTAPHAS 3 がMUSE HALLであって、その2つのライヴを現場体験してしまったことはその後の自分の音楽の方向を決定づけちゃったと思う。今も云ってる「脱国境音楽」だ。

 もう一度云うけどデヴィッド・バーンのそのライヴは素晴らしかった。本人の中でもそのキャリアの中できっと頂点だったと思う。どの曲もカッコよかったけどぼくにとってなによりも圧巻だったのはサンバの、   
「DON'T WANT TO BE PART OF YOUR WORLD」だった。最後から2曲目か3曲目だったと思うけど、足踏みしながら一点を見つめながら、クールなんだけどアドレナリンがびんびんなのはよくわかって、これが
デヴィッド・バーンって感じ。トーキング・ヘッヅ時代の曲は一曲もなし。いさぎいい、それでいてとてもゴージャスなライヴだった。それこそ、ただ今ラテンに夢中!!!って感じがよくわかって、それにも増して曲は、ぼくも共演したことのある、NYサルサの大御所ジョニー・パチェーコやウイリー・コローンとの共作もあるとはいえ、モチーフ・アレンジともに最高だし、なによりもその音楽に対するリスぺクトがいたるところに感じられるし、何をイキってそんな大批判キャンペーンやねん、田中ー、ロックのことなんてなあんもわかっとらんクソ民族音楽評論家の分際で、意地の悪い小姑みたいな真似すんなっちゅうねん。と思ったわけでした。帰りのうちの奥さんの運転するボルボの助手席で「疲労天国」できちゃったぐらい、おれも盛り上がってしまったのよ。メレンゲのリズムがアタマとカラダに残ってたんだね、今思えば。
 デヴィッド・バーンに関しては最近、「ストップ・メイキング・センス」が再公開されたりして初めて彼を見たワカモノもいることだろうけど、あのスタイリッシュなヘンタイさってのはどう映るんだろう?パンク・ニューウェイヴ時代の(これはまさにぼくらの時代の、ということなんだけど)ダントツのカッコいい、アーティストなんだけどな。
posted by おれ at 09:40| Comment(1) | TrackBack(0) | music関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ああ3ムスタファズ3…。
Posted by at 2005年12月05日 23:13
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