2005年07月14日

<日本にもテロ?>

<<注釈が必要だ。イギリス・ロンドンの物理的・爆発的なテロの怖さはもちろんだが、ぼくらが生きているこの現状も程度・規模の差こそあれ、ちっちゃなテロに身のまわりが満たされていることに気づくだろう。肉体が滅ぼされるか、その前に精神が滅ぼされるか、そんな競争してどーすんねん?という、こと。2004 秋号から>>

<日本にもテロ?>
 オーストラリア大使館も遭っちゃった。きっと日本も本土はともかく、大使館レベルでは近いうちにテロがあるでしょう。小泉くん、どう責任とるんだろ。それにしてもテロリストたちは「より卑怯な方法がより成果をあげる」というtheoryに人道面で疑いを抱くことをもうやめちゃったみたいだね。それは彼らが追い詰められている証拠だし、もっと卑怯な手を次に使ってくるという仮説が成り立つことになる。ロシアのテロも理屈は同じでプ−チンの大統領生命は対テロでまずは強硬にでないことには約束されないのは、先に手をだしちゃったブッシュと立場は同じ。それでもこの二人は延命しそうな、悪い予測がある。しかし、悲惨だなあ。国内の事件も悲惨だしなあ。ひとがひとを殺すことにこんなにためらいのない時代も戦時を除けばかつてなかったんじゃないのかな。ひととひとの間には対決しかないのかという、これも仮説だが真実味はどんどん増している。

 地震・雷・台風・テロ・身近な殺人。世界は未だ世紀末である。ひとは成熟しない。政治家はアタマ悪い。企業はひとを切って生き延びる。コドモはキレてあばれる。それを説得して諭すチカラも社会にはない。オンナは自分を磨くことだけを考え、オトコはメディアに喚起された欲望を持て余し暴発する。でっかい水爆でも落としてくれた方がすっきりするかもね。
 アルカイダがやんなくても、おれたちの周りはすでに小さなアルカイダだらけである、と言えないだろうか?クソみたいなTV番組・クソみたいなCM・クソみたいな映画・クソそのものの音楽・脳内クソだらけのワカモノ・・・、そんなうんこまみれな環境でヒトはどー狂っていくか、なんて実験やめよーよ。その結果はもう出てるじゃないの。はげしい自己中心主義と他者への無関心、生命の軽視と想像力の激しい欠如、バカ大量発生とバカのための産業だけが報われる、だろ。マトモ、って何がマトモかもよーわからんが、マトモな感覚の人間には周りをアルカイダに包囲されてるのと同義やで。今のこの日本って。アルカイダのテロなんて、自衛隊をイラクから退きさえすれば、解決じゃん。それにひきかえ、この環境テロはどこに責任があるのかが、わからない。もう対処の仕方も考えられないところ、引き返せないところまで来てる。どーすんの?
posted by おれ at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月01日

クソアツイ夏・五年前

◎湿気&クソ暑い今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?

 大阪の夏・日本の夏・キンチョ−の夏。ほとんど東南アジアとかわらんこの海洋性の高気圧張り出した夏は最近特にコタエル。年のせいだろうか。かつてのオナニ−も知らなかった時代のあの<黄金の夏休み>な夏というのはもう戻ってこないのだろうか。とすればサミシイ。みんなは夏・子供の頃の夏はどんな風に過ごしていたんでしょうか。オトコというか男子の栄光の時代はやっぱり小学校時代だ。ぼくの場合は少なくともそうだった。しかし、ぼくはいわゆる男の子の遊びがあんまり好きじゃなく、それは今オトナになってからもだいたいのオトコがハマる釣りとかキャンプとかに全然興味がないことからもよくわかる。何がいったい楽しいの?ってきこうとして、自分が少数派であることをふとそこで気付く。精神上で遠くに行けないヒトビトが物理的に遠くに行こうとしてやってるのがその釣りやキャンプ、いわゆるアウトドア男たちなのではないか、とニラんでる。

 また、そんなこと言って、ヒネクレもの。と思われるかもしれない。そうかもしれない。でもみんながやることを追っ掛けるほどおれもいまんとこヒマでもないし、考えてることがみんなとは(これはおれにかかわらずすべてのひとにいえることだけどさ)きっと違うはずなのに行動がおんなじっちゅうのはなんで?と思いませんか。

 子供でいたい、ってもうこんなイイ年こいていうのもそもそもおかしいし、それを望んでいるわけでもない。ただヒトには社会との摩擦・軋轢用の精神的部分と、それには使いたくない部分があるでしょ。それに使いたくない部分の『あそび』をせんとやおもひけむ部分に工夫がないとおもんない。今、どんな仕事だって代わりの者はいる。そんな仕事に命(ことばどおりの命という意味も含む)懸けて、全精力使い果たしちゃってて、残った時間にやることといったら、遊びのマニュアルのあることなんてのはつまんなくない?あ今の文章、前半はぼくらから上の世代・後半はぼくより下の世代にあてはまりそうだ。

 今日は選挙の日だった。ぼくはまたまたいきませんでした。せっかく政治を変える(しかもあなたの手で)チャンスなのに投票にいかんヤツはダメなやつ、みたいな論調が支配的です。反論は敢えてノ−ガ−ドで受けるとして、おれの意見をちょっとだけ言うとですね。どれも嫌いな場合はどうするのか?どれも嫌いなひとでもどれか「より嫌いでないもの」を選ぶ義務を果たす必要があるのか?その嫌い度において(無論これは一選挙権保持者として)よく吟味した結果どちらの側の利益も幇助することがとんでもなく嫌な場合、そのとんでもなく嫌度を示す方法で棄権以外の有効な方法がある人はどうか教えてほしい。「とりあえずう、何人かあ、いるんだけどお、どれもお、イマイチなんだけどお、しばらくのお、つなぎってえ、かんじでえ、このコとお、つきあっとこっかなあっと。」っていうバカオンナになれっちゅうのとあんましかわらん気がしてる。「そんなんで〜え、ほんとにい〜の〜お?」って、こんどはおれが質問します。いわゆるなんの組織にも属していないひと(いわゆる無党派層)の投票がない場合、組織票に大負けしちゃうというのはわかる。ではその組織票というものが存在することに対する原理的な批判、つまり個人の意志の絶対性の揺らぎ、つまり「ほんまにきみの意志で投票してんの?」という程度のもので政治の枠組みが決まってしまう愚かさ、しかしその方法が唯一の良い方法だというぼくたちの歴史的認識に対する全体主義以外のオルタナティヴの提示に関する議論がないままに政治情況だけでなく政治風土まで現状維持したままの選挙というものに虫酸が走る人々の精神的ケアはどないすんねん?以上。言いたいこと終わり。

 オトナも子供もバカはただ騒ぎたいだけ、という気がする。そんなバカ騒ぎがイヤんなっちゃったやつ、内省的になっちゃったやつのための、表現が、人殺しという方向がなんだかもう「道が」できちゃった気がすんのがぼくとしては気が重い、滅入る。その表現は「安易で稚拙」だ。ものごとをじっくり考えてると「遅れてしまう」、人より早く物事を始めたほうがイイ目にあえる、いそがなきゃっていう、アムウェイ的な考えが支配的だった5年くらい前までのこの日本という国のノリのつけを支払わせられてる気がしてる。

 とすれば、しょうがないのか?大きなものが小さなものをイジメる。小さなものはもっと小さなものをイジメる。大体そんな構図が多くて、ゲロゲロなことはかりだけど岡山の高校生の事件、なんかぼくは結構感情移入してしまった。年下のしかし、集団での精神的・肉体的ハラスメントに対して、バットで殴ったってのはこころの中で実はぼくは喝采を送ってる。それは他の事件のような、自分が弱者であることを認め、それに甘え、そしてある種の欲望を自分よりもより弱い者に向けた、というのとはちょっと違うからだ。同じ17才だからってことでいっしょくたにしてしまうのはオトナの怠慢だとおもう。彼はイジメられてたみたいだし、それに対してその当事者と闘ったわけだからそれはきっとあとから情況の中でこれは効いてくる、と思う。もっとわかりやすく云おう。イジメる側は、今後はその相手がキレたら殺されるかもしんないっちゅうリスクを背負うってことだ。そこでは集団の優位性は凶器を持つ相手には機能しないからね。おれはその岡山の彼は好きだ。ママを殺しちゃったっていうのも、これは見方を変えるとまだその家庭は家庭の機能がかろうじて残ってた証拠だ。そのあとのママの辛さを解消するためにっていうのもある意味泣かせる。そこにはすでに崩壊してしまったはずの「愛」とか「家族」の名残りが見て取れる。これはギリシャ悲劇的悲劇だと思う。古典的な悲劇。そのあと「北」へ向かったというのもいい。なんか昭和の匂いがするっていうか。大体昔(ちょっと昔も含めて)から止むに止まれず罪を犯してしまった者は「北」へ向かったのだ。

 ぜひ彼には更正してもらいたい。いや、きっとできると思う。

 
posted by おれ at 09:56| Comment(1) | TrackBack(1) | 社会的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月29日

AC

猟奇的・変質者的事件が次から次に起こって、なんかそんなのにもいちいち驚いちゃいられないから、そっち方面の感覚をひとは鈍化せざるを得ない。とりあえず、個人的には衝撃があるけど、メディア経由の衝撃は鈍化も速い。ぼくはとくに最近思うんだけど、こんだけ価値観が多様化しちゃったんだからもう地上波のTV局は廃業すべきだと思う。中学生でも近頃TV番組で盛り上がってるとこみたことないぞ。共通の話題の提示がすごく難しい時代だし、自分のことしか興味ない、というかもっとで、自分の興味あることしか興味ない、って感じ。ヤツらは。そのままの自分で幅を拡げたり、拡げられたりするのがすごくメ−ワクみたい。なんかそのうち会話じたいが成り立たなくなるんじゃないかな。幅を拡げるかわりになにか別の自分にワ−プしたがってる。自分を媒体にして別の自分へ。多重人格願望症候群ともいえる。ほんとの自分はその別の人格の中にいるう、みたいな感覚。夢想癖というのは誰でも程度の大小こそあれもってるものだけど、でもね、ほんとにそっちいっちゃって、そっちでメシ喰ってるとか、ウンコしてるとか、サイアク人殺してるとかやっぱまずいでしょ。しかもそっちっていうのは、ちゃんとした現実で、いっちゃってる意識はこっちの自分にもない、名前も別人なんてことになると、なんか「ワ−ム・ホ−ル経由ラウンド・トリップ30日間FIX格安チケットバッタ屋の旅行代理店で買いました」をいつももってるってことでしょ、例えていえばさ。
 最近顕著な病理、まあこれは全員同じ病気ともいえるわけで、きっと「性格」ほどの頻度に格上げされていくんだろうけど、別で最近話題によくのぼる病理というとPTSDである。トラウマ・トラウマって語呂がいいから、みんな最近よくつかってるでしょ。心的外傷という訳になってます。PTSDはその心的外傷を受けた後に出てくる症候群ですが、阪神大震災ぐらいから報道にも登場するようになりました。心的外傷というのはいろいろで、身近なひとの死とか、凄い地震の揺れというのもそうだし、レイプの被害に遭う、だってそうだし、試験に落ちるとかオンナにふられる、だってそうで、それは被害に遭う側のキャパとも関連してると思うんだけど、ただ、その心的外傷を受ける機会というのは圧倒的に自分が無力な時、つまり、子供時代ってのが多いわけで、その条件というのは、アルカホリック(アル中だね)の父親がいる、酔って家族に暴力をふるう、暴れる、自分も物理的な被害に遭ったり、酷い話になると父親や伯父さんからレイプされる、とかいろんなことがあるんだけど、そのなかでも特に酔っ払いの暴れるオヤジをもつ子供のことを「アダルト・チルドレン・オヴ・アルカホリックス」といいまして、日本人、最近略すのすきだから、当然これもアダルト・チルドレンで流通してしまった、という不幸な歴史がある。ただ「アダ・チル」になるほど、田舎の中学生にまではまだ浸透していない。なんか、おとなになれない、年はおとなのヒト、みたいな一種のピ−タ−パン・シンドロ−ムのような理解のされかたをしてた/してるように思えるけどどうだろう。「おれって、アダルト・チルドレンなんだ」「そう、でも子供っぽさのあるヒトってすきよ」などという会話があっちこっちであったかどうかはしらんが、意味チャウぞ、それ。昔、ライヴ後の打ち上げで、初見のガイジンに「アイム アブノ−マル」って言っちゃったキタバヤシジュンといい勝負だ。キタバヤシさんの場合、単なるSM好きなだけだった。ちょっとそれるけど、なんか省略・短縮、過ぎないかなあ。言葉って、身内だけに通じればいいっちゅうもんでもないだろう。それはコミュニケイションの本来の意味に反するばかりか、外国人=外部の人=他者を拒否して、わからないやつにわからせる時にこそ言葉をひとは選び、吟味し、慎重に発するわけにもかかわらず、なんか「ぬる〜い、湿気の多い」環境ができあがりそうよね。そんな言葉を使ううえでこのうえもなく安全な場所で自分だけの短縮形を競いあって作って、それをごく身近ななかで得意気に流通させても、結局、その集団は閉じていくばっかりだもんなあ。でもそんな人々にはきっとそうすることがなんらかの意味で必要なことなんだろうな。おれもこないだ、パソコン屋で「ボ−イチにしましょうか、ボ−イチ」っておたく店員にいわれてなんのことかわかんなかったぞ。ボ−ナス一括払いのことだった。なにも正しい日本語を使いましょうなんてことを云ってるわけではないが、なんか不快。表音語のアルファベットだったら、さっきのPTSDだとかWCWとかWWFとかプロレスの団体ばっかしで申し訳ないんだけどさ、まだ滑るというかするっといくというか、マ、確かにアメリカンも省略は好きだが、ABCってそれ用にできてるってことかね。日本語でもケ−スバイケ−スで、身近な例でいうなら、うちのメニュ−の珍味五種=ちんご、これはOK。なんだか、ポイントは「可愛げ」みたい。もうちょっと説明してみろ!って追及されるとちょっとこまるかもしれないけど。
 でアダルト・チルドレンである、その問題の。子供の頃、というと、家庭内ではどうしても無力である。そして大人の暴力には根本的には抵抗できない。そのなかでは臆病な子は臆病なりに、責任感の強い子は責任感の強いなりにある種の精神的負荷を背負いながら過ごさなければならない。そんな中でも自分をある程度表現できる子たちは、信頼のおけない親に代わって家庭の中での調停役を果たすことになる。臆病な子は、ものすごく現実から逃避し、ひどい場合、多重人格の最大の原因となる。そんな中で少年期を無事やり過ごしたとしても、そのPTSDは確実に残り、それはその後の人生でなんらかの形で表面化してくる。自虐的・被虐的・動物/子供の虐待・自殺願望・被害妄想・夢想癖、大人になってからはそんな傾向をとることが多い。
 彼らは、自分のしていることが、他人にとって役に立っているか、ということを異常に気にするし、自分の評判もものすごく気になるし、心の闇のようなものの中に大人になっても篭もる傾向がある。いとも簡単に他人を軽蔑でき、他人の多様さに安心することができない。精神的な自立がなかなかできずに、何かに寄りかかっとかないと不安である。「間」に恐怖をおぼえ、何かでそれを埋めようとしてそれが逆効果になることもあったりする。何かに復讐したいのにその対象が掴めないもんだから、無意識のうちに攻撃的になる。合衆国大統領のクリントンが自分もアダルト・チルドレンだったことをカムアウトしたのはまだ記憶に新しい。実はちょっと昔のアイドルにもアダルト・チルドレンが多かった。山口百恵とか秋菜とか。なんとなくわかるでしょう。類型的というか。
 その克服は非常に大変なことだ。周囲の人間(この場合は親以外の他人)の協力も要る。しかし、周囲の人間がいつも協力してくれるとも限らない。そんなものはお願いできるものじゃないしね。自分で克服する以外ないよね、そうなると。(さっきの例で云うと、モモエさんは克服してるみたいだし、アキナさんはどうもまだみたい)まずは自分をよく知ることからしか始まらない。これはそうじゃない人にも云えることかもしれないが、自分をまず見て、それを受け入れて、他人との関係においてその摩擦を減らしていく以外にはない。その社会的な治療が最近はできにくくなっている感は否めないけどね。イヤだって思えばすぐにその場から立ち去ることもよくあるでしょ。忍耐ということもこの場合は効果アリなのだ。
 最近の家庭を垣間見ると、親自体も未熟で、自分の欲望、結構全開だから、必然的にこんな子供がきっと増えていってることが考えられる。ただ、別の見方をすると、かつての日本でも、アダルト・チルドレンは存在したのに、なぜ今になってそれが頻発しているかってのがまた問題でもあるわけだ。ひとつには、自覚ってのがある。自分の不完全さを、まあ、親のせいにできる、都合のいい言葉なわけ、アダルト・チルドレンってのは。もちろん正真正銘のPTSDのヒトもいる。でも、程度としてはたいしたことないよ、っていうヒトが自分のダメさを親のせいにできる、ひどく便利な言葉でもあるのだ。もっと広い視野でものを考えてみると、フロイトいわく、全ての人間は生まれて、初めて意識を持った瞬間に、自分の無力さに気付き、それがまず第一のトラウマである、と。しかし、全員が全員PTSDに苦しんでいるかというと、そうでもないわけね。どこかで分岐点があるはずだ。やはり、その後の親との関係や、無意識のうちにそれを克服しようとしたかしないか、あるいは、単なる幸運・不運の積み重ねによるものとしかいえないな気もする。なんらかの立場を強制的に強いられた人、不満を押さえ付けられた人、家族の実質的崩壊の現場に立合って無力感を強烈に感じた人、そんな人にとってその環境が自分の臨界点(またでてきたね、クリティカル・マスです)を超えたとき、その症状に無意識のうちに逃げ込んでしまう。これはほんとに深刻なケ−ス。ただ、そうじゃないのに「なんかおもんない。おれは・あたしは、こんなはずじゃないのに」ってヒトもたくさんいるでしょ。その背景には、まず第一に、最初の環境である家庭で、そこで、なんだか妙な「理想の家庭」というものが設定されてて、そしてそれがひどく硬直化したもので、それはきっと大抵の今の家庭が、それを一旦は目指しはするが決してそのワク内には到達しない仕組みになってるような気がする。そしてその次に来るのが、「理想の自分」というわけ。それは実は歴史を遡って考えてみると、やっぱり出所は自由と平等の国アメリカです。それが階級のない日本でさらに見事に「商品化」されてしまった。欲望の喚起にかんしては日本とアメリカは、もうこれはもんのすごい。エステとか、占いとか、いわば、ほんとの自分みっけのための「商品」でしょ。多分昔は、自分なんてその程度のものだという、今の「ミ−イズム」のようなものがなかっただけなんだと思う。身分相応って言葉があるけど、自分に必要以上に期待していなかったってことだろう。誰もがイッパシの欲望を持ち、イッパシの口を叩く時代というのは、これはきっと前代未聞のことなんだろう。高度な資本主義の行き着いた到達点がこんなもんだったわけです。
 その高度資本主義社会がアダルト・チルドレン増産に拍車をかけてる。
 最近の犯罪の傾向って、なんか「安易で稚拙な<表現>」みたいな気がしてるんだ。本当の自分なんてそこにいるじゃないか、ってぼくは大声で云いたい。それでいいじゃないって云いたい。世界の情勢を冷静に分析してみれば、結局そんなのは「甘え」にごく近いということがわかるだろう。アフリカやコソボ(例えば)なんかほぼ全員PTSDだ。理不尽な暴力が過去の話ではなく、現在進行形でそこにはある。多分もうフォロ−できなくなると思う。世界中のすべての人間が社会福祉の講座を月イチで取っていくぐらいのことをしないともうフォロ−できなくなる。社会が荒れてるのは、これはもう全世界的なことで、イギリスやフランスだってものすごい、手に負えない荒れようだ。「個人主義」を標榜していた国ほど、民主主義を理想としていた国ほど、治療法のない重い病理をもってしまったことは皮肉以外の何でもない。個人・民主主義というごく近い過去においては、これをゲットすることが栄光だったそんな概念が世界を中から腐らせていくなんてこんな壮大な「皮肉」があるだろうか?結局ヒトはその程度のものだったってことなんでしょうか。やっぱり動物の方がエライ場合が多いのかもしれない。「巨大な処理能力を有する脳を持ちながら、それが処理できないほどの肥大した欲望をコントロ−ルできずに滅んでいった種」として何万年か後には地球の歴史図鑑に間抜けな顔して載ってたりして。なんかかっこわりいなあ。

posted by おれ at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会的 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。