2006年03月15日

CM音楽に関しての懸念

<<2004年ヒトリツウシンより。その状況はさらに進んでいる。ジミ・ヘンが中途半端にそのモンタレーの映像をちらっと使われたり、なんかそれ単に代理店のバカのちっちゃな自己満足やろ。やめてください。あややがジャニス歌ってんのはなんかまだまし。>>
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おれは良くわからないというのが本音なんだけど、代理店のやつらいったいどういう気で過去の歌を3ヶ月クールのCMにつかっているのかってことなんだけどさ。いやほんとはわかってるけどさ。過去っつっても音楽ってものを自分の生きてきた証しとして考えてるおれみたいな人間もいるわけで、前にも云ったことあるんだけど、非常に不愉快である。商品のための映像とうまくマッチする、あるいはなんだかしらないが「雰囲気」な音。過去のミュージシャンがそんなところに使われるなんてことは想定せずに精魂こめて作った音をそんな移り変わりの激しい場で使い捨て感覚で使うのはいかん。いかんぞ、ほんとに。作ったやつ、首絞めるぞ。そんな過去の遺産の「浪費」は犯罪である、と思っ
てるやついませんか。連帯しよう、おれと。あゆの曲や幸田とか森山良子の息子の歌とか使えばいいじゃないか、って思うが、どうなの。今の商品ごときには。60年代・70年代、そして80年代前半の精神世界というのはまず第一にそこに若くしていた人間にしかわからない、そしてこの世界の近代化(養老先生的には都市化)の過程の一回性の(ということは正に一回きりのということよ)すべてが飽和状態になる以前の流動的な世界の話であることをみなさん理解しないことには始まらんわけよ。今おれは単なるおっちゃんの回顧録みたいにならないようにものすごく神経使って云ってるんだけどね。このことは何度でもいいたいと思う。なぜか?代理店のやつらには単なる材料でもおれにとってはそれらは宝物だからです。そしてほんとうはみんなにとってもそれは宝物のはずなんだけどね。おれはその宝物を自分なりに再現しようと思って音楽をやっているが、最近の音楽は音楽しらん子供用の音楽だし、おれが愛してやまない時代の音楽とは切れてしまっているからなのか、レベルが高い方が音楽として辱めを受けるなんていう転倒がそこにはある。簡単になんとかなるとは思わないし、きっとこれからもっとひどい状況になると思うんだけど、そこは昭和30年代生まれとしての人生の一回性ゆえに譲れない。懐メロでもないし、過去のR&Bなんて本当に素晴らしいんだから。おみつのカラオケで最近オーティスやレイ・チャールズ歌うのにハマってしまってることともそれは関係がある。まあ、すごく個人的なことなんだけど、おれと同世代の人間たちはそれを一体どう思ってるのかなあ、と思う。多勢に無勢だし、波風たてないようにしてるんだろうか?好事家の秘かな愉しみ、というようなとらえかたをしてるんだろうか?それとも過去のことはただただ懐かしいだけと無批判にTVCMを受け入れているだけなんだろうか?
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2005年11月29日

DAVID BARNE 4度目の来日 in2001

2002の新春号から。髪の毛真っ白けなってておどろいた。最近そのツアーのドイツかどこかのDVDミタキが手に入れたみたい。DAVID BARNEだよー。


 最初にみたのはFESTIVAL HALLだった。なんと前座がMELON。連れて来たギターはな・な・なんとエイドリアン・ブリュー。まさに最先端だった。ホント衝撃的だった。おれが24位の時。あの時の、なんかその見たことのないものが目の前で繰り広げられてる衝撃というものをうまく云う言葉をいまだ持てないのは残念でもあり、嬉しくもありというダブル・バインドはまだある種のパンク・ニューウェイヴのコンセプトがまだ有効を意味する証しでもあるからそれはそのままにしとこうと思う。あの時代の印象的なライヴというと、グレアム・パーカー&ルーモア、死ぬ3ヶ月前のボブ・マーリィ&ウェイラーズ、ステージ上でべーシストが宙に浮きながらプレイしてたアース・ウインド&ファイア、RCO ALL STARS(わからないと思うから云うけど、ザ・バンドのリヴォン・ヘルム・「スモール・タウン・トーク」の作者ボビィ・チャールズ、Dr.ジョン、リンゴ・スター、そしてリズム隊はブッカーT&MG's(これって極力サラッと云ってるけどさ、ギター/スティーヴ・クロッパー、ベース/ドナルド・ダック・ダン、って要するにオーティス・レディングのバックやで、ラッパ隊もコミで。いわゆるBLUES BROTHERSのヒトたちね)などですけど、新しさというか、次の次元を指し示していたのはなんといってもトーキング・ヘッヅだった。かつてのミュージシャンが見向きもしなかったような方法で音楽を成り立たせるというパラドックスを軽やかにやってのけてる、ってのがカッコよかったの。トーキング・ヘッヅは=デヴィッド・バーンだったし、なにもかもが誰もやったことのない新しさが彼の中には渦巻いていた。ぼくも常に目が離せなかったし、一体次にどんな展開をするのかってとても関心事だったから。当時はぼくの参加していたTANKS(A Decade-IN FAKEの前のバンド。拾得によくでてた。当時の店員が玉置とどんと、彼らはぼくのヘタ・フリーキーギターでばか盛り上がりしてた)はヘッヅのベースにしてる音楽=アメリカン・ルーツ・ミュージックのブラック寄りなとこと今思えば共通項がたくさんあるなあ。

 やっぱ時代の空気ってことだろうね。その後、アフリカ音楽とテクノの融合(原始と原子の融合なんてコンちゃんは云ってたなあ)の「あの」アルバムを出した頃、おれはなんとなく予感がしてた。テヴィッド・バーンがカール・フィンチの力を借りてTRUE STORIESを作った頃、世界の音楽に目を向けるべきだって、これは、テヴィッド・バーンにヒントをもらったんだけど、正確に云うと、なんだかモヤモヤしていた心境を言葉ですかっと言い表わされたってのが近い。で、そう思ったおれはニューヨーク・サルサに目がいったわけ。そしてウィリー・コロン(スキニー・パパのひとね)に出会い、最初は馴染まなかったんだけど、そのうちに何かがピピッと来て、気がついたらコンドル1とコンドル2が出来てたというわけ。おれたち=A Decade-IN FAKEは、いち早くそれをBOX RECORDからリリースし、これは嘘でも何でもなく、ワールド・ミュージックのある部分をいち早く消化した世界で最初のロックバンドになったわけ。あの「先端」なテヴィッド・バーンのラテンのアルバム「NAKED」はそれから約一年後の出来事だもん。おれはその時キタバヤシと「やっぱりデヴィッド・バーンもラテンいったな」って言い合ったものだった。 
 その後、向こうはスターだし、こちらはインディペンデント・ミュージシャンだけど、いつだってその動向は気になっていた。日本でそんなことやってもどうにもならないことは分かっていたんだけど、だって当時の日本なんてブルーハーツとかの時代だぜ。フォークソングの3コードにちょっとカッコだけパンクで速い8ビート、ギターはコードかき鳴らすだけベースは延々ルートのみ、そんなんをバックにただちょっとカラダが元気なやつがメロディーもないような恥ずかしい歌詞を飛んだりはねたりしながらガナってるなんていうお粗末なものだったんだよ。パンクの最も安易な部分の再生産と云う感じ。この国の音楽はそれ以来完璧バカのものになっちゃったわけね。そんなんにスリヨルなんておれのプライドが許さんでしょ、ドー考えてもサ。
 で、その後デヴィッド・バーンは世界音楽お勉強の旅へと出る。ブラジルのノルデスチ(北東)バイーアに長期滞在し、ラジオから流れる音楽をエア・チェックする日々が続く。アルト・リンゼイの協力も得ながらそうして出来上がった、素晴らしいコンピレイション・アルバムが「BELEZA TROPICAL」だ。その中にはカエターノ・ジル・ガル・マリア・ミルトン・ロ・ジョルジュ・シコなんていうとんでもない素晴らしいミュージシャンの曲が収められていたし、デヴィッド・バーン自体もそれに夢中になってしまったことがよくわかる。
バイーアのダンス・音楽であるFORRO(フォホー)のコンピレーション・アルバムまでも編集してしまう。その中には偉大の10乗ぐらいの値打はあるルイズ・ゴンザーガの曲が含まれていた。「ASA BLANCA」を聞いたり一緒に歌ったりして何度ぼくは泣いたことか。同時に自分の国に自国語で何のてらいもなくみんなで歌いあえる歌がないことにがく然とした。その時から自分はコスモポリタンになることを決定したわけさ、自分がそんな曲を作るまではね。そのうちに「NAKED」後のデヴィッド・バーンは「レイモモ」という問題作を発表する。あ、今問題作などと云ってしまいましたが、おれの中では「快作」だけど、当時の音楽メディア、特にミュージック・マガジンの、ロック側の人間じゃない「民族音楽原理主義者」とでもいえそうな連中にこてんぱんに叩かれた。特に田中勝則とかいう「お勉強好きなカッコ悪いばか」の論調がデヴィッド・バーンをまるで「ブルースマンを搾取する白人」というような構図に押し込めて大批判キャンペーンをやっちゃった。そんな中で行われた、2回目の来日公演、バックはNYサルサのバリバリの連中。「デヴィッド・バーンの歌と踊りさえなければ最高!」なんてタイトルで公演評が書かれていたのを思い出した。おれは大阪ではチケット手にはいんなくて、京都というか長岡のなんちゃら会館ってとこまで見にいった。で、どうだったか、というと・・・・・「素晴らしかった!!」としかいいようのないコンサートだった。その翌日、3 MUSTAPHAS 3 がMUSE HALLであって、その2つのライヴを現場体験してしまったことはその後の自分の音楽の方向を決定づけちゃったと思う。今も云ってる「脱国境音楽」だ。

 もう一度云うけどデヴィッド・バーンのそのライヴは素晴らしかった。本人の中でもそのキャリアの中できっと頂点だったと思う。どの曲もカッコよかったけどぼくにとってなによりも圧巻だったのはサンバの、   
「DON'T WANT TO BE PART OF YOUR WORLD」だった。最後から2曲目か3曲目だったと思うけど、足踏みしながら一点を見つめながら、クールなんだけどアドレナリンがびんびんなのはよくわかって、これが
デヴィッド・バーンって感じ。トーキング・ヘッヅ時代の曲は一曲もなし。いさぎいい、それでいてとてもゴージャスなライヴだった。それこそ、ただ今ラテンに夢中!!!って感じがよくわかって、それにも増して曲は、ぼくも共演したことのある、NYサルサの大御所ジョニー・パチェーコやウイリー・コローンとの共作もあるとはいえ、モチーフ・アレンジともに最高だし、なによりもその音楽に対するリスぺクトがいたるところに感じられるし、何をイキってそんな大批判キャンペーンやねん、田中ー、ロックのことなんてなあんもわかっとらんクソ民族音楽評論家の分際で、意地の悪い小姑みたいな真似すんなっちゅうねん。と思ったわけでした。帰りのうちの奥さんの運転するボルボの助手席で「疲労天国」できちゃったぐらい、おれも盛り上がってしまったのよ。メレンゲのリズムがアタマとカラダに残ってたんだね、今思えば。
 デヴィッド・バーンに関しては最近、「ストップ・メイキング・センス」が再公開されたりして初めて彼を見たワカモノもいることだろうけど、あのスタイリッシュなヘンタイさってのはどう映るんだろう?パンク・ニューウェイヴ時代の(これはまさにぼくらの時代の、ということなんだけど)ダントツのカッコいい、アーティストなんだけどな。
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2005年08月10日

南部をめざせ'03 Hi&Stax

<脱国境音楽家としてメタ・レヴェルからアメリカ南部黒人音楽を見てみる。これしかないねん、というのはそれはそれで認めもしてるし、カッコいいとは思う。ただ世界音楽を経験したあとに、つまり一周まわったあとにHiやStaxの音を聞けば、また別の価値を感じる。メタ・レヴェルというのはそういう意味です。ブラジルやキューバの音楽の完成度と比べても、種が違うから一概に比べられないが、これはこれで非常に高いと思う。ただ、時期的に無性に聴きたくなるよね、というのはカオルちゃん(カオリーニョ藤原氏)とも話したこともある。芳醇な音楽である>



<南部をめざせ'03>
 この時期にこんなタイトル、恒例化してしまいました。なぜでしょう?答はこの時期の湿度でしょうか。いやそうでしょう。六月になって梅雨入りして、じっとしてても汗ばむ季節、いきなりベランダにて、梅雨の一休みな時期にぱんつ一丁でビール飲むなんてのもそりゃーいいんだけど、たとえそんなことをしていてもしなくても、アタマの中で鳴っている音というものがある。音楽に貴賎も上下もないんだけど時節柄合う音というのがある。どーしようもなくね。それはなんつってもアメリカの南部の音といわざるを得ない。普段さんざんアメリカうんこして死ねとか最低とか悪口いってるにもかかわらず、ここだけは良い。まあブッシュの戦争に小泉が賛成したからっつっておれは世界の人々からその一員と思われるのヤだから、というような同じ事が言えて、アメリカ全体がカスというわけでもないのだ。過去のアメリカは「すんばらしかった、特に音楽はね」。盟友カールフィンチ(BRAVE COMBO)だってアメリカ人だしね。ただカスな部分はどんどん増えてるわけだから、その良い(良かった)部分っちゅうのは余計貴重なものとして受け取られるべきだね。
 コクがあってタメがあって、ゆったりしてて(レイドバックなんて言葉があった)しかし、キメはびしっと。豊かさを絵に描いた(?)ような音。重たい空気の粒子がゆらゆら揺れてるような。そして吸った息に含まれる蒸気によって身体の内部から潤ってくるような。
 過去何度も南部を目指した白人ミュージシャンもさることながら、目指すってからにはその目指す先と云う目標があるわけで、今回そのゴールとも言える2つのレーベルのことをちょっとね。
その1.
 メンフィス・ハイ・サウンドはまず、そのドラムの音である。なんといっても。ドッドッというイントロに多用されている、スネアとベードラでもう熱くなっちゃう。そしてあくまでシンプルで重たいビート、オカズもそりゃ必要最低限のシンプルだがツボを押さえた、あくまでも熱を体内にタメにタメるような。オーティス・クレイやO.V.ライトなんていう素晴らしいヴォーカリストのバックでその「ハイ・リズム隊」がシブくもあっつい演奏を繰り広げているわけ。そのオカズにしても、ムダは一切なし。最小限の音数で最大限の効果。現在のリストラ社会のお手本のような、しかし引き算でそうなったわけじゃないという、稀に見るタイプのドラム。意外かとは思うけど、「JAPAN」のドラマーなんかもものすごく好きなんじゃないかな。テヴィッド・シルヴィアンの「JAPAN」ね。最近まぎらわしいな。て、いうか逆にそんな名前よくつけたな、D. シルヴィアン。ま、いいとして、そのハイ・サウンドのテーマ曲とも云ってもいいのが「TAKE ME TO THE RIVER」である。アル・グリーン作のこの超名曲はトーキング・ヘッヅやRCO ALL STARS にもカヴァ−されそのどちらも、「さすが」なアレンジなんだけど、ハイの中ではシル・ジョンソンがやっていて、これもまたまたカッコいいの。リヴォン・ヘルムとスティーヴ・クロッパーがリスペクトをはらいまくって自分達の音を構築する上でのこの上ないテキストともいえるものがそこにはあって、おれも聞く度にうーん、なんて唸ってしまうんですが、どうなのかな、ここらへんってDJのおにーさんたちが注目するにはやっぱヘヴィすぎるのかな、JBのバックもそりゃカッコいいが、この、果てしなく重たい8ビートがおれはたまらなく好きです。
その2.
 スタックスはハイと並ぶ、メンフィス・ソウルのレーベル。残念なことに今じゃどちらも存在しない。ほんとに残念だけど。スタックスはナンパである。ハイに比べるとね。でもそのある種スワンピイなところがナンパならではでいい。背後の空気が見える。「ラストワルツ」にも出てた、ステイプル・シンガーズやドラマティックス、ジョニー・テイラ−と素晴らしいシンガーがいるが、おれが一番興味深いのが、ルーファス・トーマス。娘のカーラ・トーマスはオーティスとの共演で知られるが、この親父の強烈さってない!!!!!!!!!!!!!!!!!
一体このおっさんは「種」でいうとなんなんだろう?ヒトだろうか、それともエイプの一種か、それとも、それらのハーフか?という疑問を10人中8人は持つと思われる、その人間離れしたルックスと異様な動作にほんとにびっくりするんだから。スタックスはハイよりも「ファンキー」でその後のディスコのイディオムとかがそこにはたくさんあるとおれは思うけど、ジョニー・テイラ−の「WHO'S MAKIN' LOVE」なんかを聞くと、洗練されすぎてクソとなってしまったディスコにはないすれすれのカッコよさがあって、ゾクッときてしまう。なんだか、進歩ってのは図らずも一回性であることだよなあ、と思わず詠嘆の感情にとらわれてしまうものだよなあ。

 そしてそんなものを目指して、ザ・バンドやリトル・フィートはがんばっとったんだな〜。そりゃ楽しいよな〜。

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2005年07月07日

5年前、初夏のあの日

<SLAPP HAPPYを見に京大西部講堂にいってきた>

 うっかりしてた。前売買うの忙しさにかまけて忘れてた。気が付いたのが土曜の午後で招聘元に連絡したら日曜当日の二時から現場で当日券を売るということだった。そ〜か、ということでおれはハラ決めて土曜はお店ぶっちして当日に備えたわけ。

 それにしても、西部講堂である。こんなに、スラップ ハッピ−の、ほぼ誰もが信じていなかった初来日にぴったりな場所ってあるだろうか?パララックスレコ−ドの人々ほんとにえらいぞ。その場所・語るに多すぎる逸話があまりに濃厚に貼り付き、一時はぼくもなんとなくヘヴィ過ぎた感も否めなかったけどバブル期も終わり、この出口のない経済的・文化的・時代的閉塞感のなかでもう一度地に足の付いた生活を取り戻すべく試行錯誤が始まったこの時期に70年代的価値観の再評価(ただ懐かしむだけじゃなく)気運が自分の中で高まってる今、こんなタイムリ−なことはなく、まずそれがうれしかった。その西部講堂。A DECADE−IN FAKE時代に一度だけ出演したことがある。ぼくらのさらに上の世代になる、村八分とかウエストロ−ド・ブル−スバンドなどの、当時でさえも十分、時代がかったエピソ−ドに彩られたそのステ−ジというのはぼくにも妙な緊張感をもたらしたことを忘れてはいない。あれから15年。スラップ ハッピ−の最初の録音がおわったのが1973年だから(世にでたのは80年)、それからすると四半世紀。しかし、その音楽は古くなるなんてことはこれっぽっちもなく時代時代の<最先端>の音を小馬鹿にするかのようなしなやかさでどんどん支持者を獲得していき、このぼくだって総てのアルバムの中で人生のベスト10に入ってるもん。様々な虚飾や売らんがための、時代とリンクした旬のキャッチコピ−に代表される「なんか虚しいもの」が単に経済がダウンしただけでそれらすべてがバカみたいに思えて、カルイ気持ちでフッと吹いてみたら、それは実は砂でできていてあっという間に吹き飛ばされてしまい、後には虫の死骸がありました的な「商品」の空虚さ、もっとマシなもんないんかい、求めることが、その物語の経済学が成り立たない時代の、それらのネガティヴとは無関係のその音楽自体にすべてが込められた、純粋でしなやかなもの。それがスラップ ハッピ−なのだ。

 309で名神をトバして千本通りから四条通り、堀川通りを北上し、今出川から百万遍をちょこっと下って西部講堂へ。「あの時のままの」姿でそれはそこにあった。水溜まりは当時よりひどくなってた。チケットを手に入れ、クルマを止める場所を探しとこうと思ってうろうろする。うろうろしているうちに「哲学の道」の入り口に着いてしまった。クルマを適当に止めて、歩こうと思った。観光客に混じって疏水横を歩く。日が陰って適度にひんやりしていて、ものを自然に考えるようになる。さすがは哲学の道。歩いているうちに、ある既視感にまとわりつかれた。なんだったかなあ、と考えながらさらに歩く。思い出した。玉川上水に似てるのだ。太宰治が入水自殺をした玉川上水。あるいは歩いている時の精神状態がより似通っていたのかもしれない。ともあれ、ある種の切なさを精神に喚起させる場だった。

 東寺で市が立っていたのを思い出したので309をとばす。京都は街全体がコンパクトだ。15分ほどで東寺へ。ところが困った。駐めるところがないのである。おまわりもたくさん立ってる。どうしょうかなあ、と思ってうろうろしてたら、ヒラメいた。行ってみたら全空きだった。さてそれは一体どこでしょう?某映画館駐車場です。すぐわかっちゃうね。で、そこに悠然と309を駐めて、もう畳み掛けてる店もあったけどシャツとお店用の三日月を手に入れた。スラップ ハッピ−は7:30だったからもう少し時間がある。某映画館には「ALL ABOUT MY MOTHER」の看板がかかってて、「おっ」と思ったが、まだだった。

 考え事をする。「哲学の道シンドロ−ム」から抜け出せてないわけね。

 自然と本日のライヴに考えが及ぶ。どんな形態で演るのか?サポ−トの人間はいるのか?チケットを買いに行ったときちょうど「その頃、子供だった」をリハ中で、しかし、あれではエクストラ・メンバ−がいるかどうかわかんなかったしなあ。ひょっとしてドラムはクリス・カトラ−だったりして。妄想はどこまでも膨らむ。

 もうほとんどっていっちゃっていいほど他人のライヴを見にいってないし、なんとなく食指が動かんというか、進行形でかっこいいことを「やり続けてる」やつが今はもうおらん時代というか、単にノスタルジックな心情につけこんで昔の名前で商売してるおじさんばっかで、そんなものはリアルタイムをしらんワカモノには通用するかもしれないけど、もうちょっとは若いがやはりおじさんであるおれにはアホらしいというのが実感。クラプトンなどを聞きにいって涙ながしてたり、思わず両手突き上げてたりして、業界バカ親父の典型ですが、そんなものとはごめんだけど無縁のおれは、「実験だけどポップ、ふざけてるけど泣く、うまいのにアマチュアリズム満載」やっぱこ〜ゆ〜のでないと時間の無駄というわけなのだ。

 そろそろいかなきゃ。さっき通った道を再度進んで、百万遍へ。うまい具合にさっき目星を付けておいた路駐ポイント#2が空いていた。西部講堂内はなんだかみんな息を飲むという表現がぴったりで、つい一ヵ月前までは信じられなかったような出来事に遭遇するわけだからそりゃそうか、それが3人が(3人だった!)出てきた瞬間に拍手が堰を切ったかのように沸き起こり、彼らは、フロントアクトがあったらしいから、所定の位置につき、もう一度軽く音をだして、チェック。ピ−タ−・ブレックヴァドがむちゃでかい。2mはあるなあ。アンソニ−・ム−アはちょっと太ったなあ。そしてダグマ−・クラウゼは随分と柔らかい感じ。だって最初は「魔女」みたいな人だったからね。しかし魔女のあの声にみんなヤラレちゃってたのだ。一曲目は、世界のちゃんとした耳をもった総てのリスナ−がこの曲を聞いてスラップ・ハッピ−の世界に出会ったのだ、casablanca moonからそれは始まったし、今もそうなのだ。ダグマ−の声は、初期の頃の魔女のそれではなく、新しいアルバムでも聞かれたようなやさしいもので、自分の声による自分の名曲のカヴァ−ともいえる。四半世紀ともなると、体中の全細胞、5・6回は入れ替わってるわけだしね。あのファ−ストの素晴らしい曲が時間を超えて再現されていく。思い入れのある聴衆が9割以上いるのが曲終わりの拍手のリキと長さから伝わってくる。おれもいつまでも拍手しときたかった。今はケルンの大学の実験音楽の教授でもあるアンソニ−・ム−ア。おもむろに電気髭剃を持ってでてくる。ピ−タ−が「アンソニ−がこれから髭をそります」なんてことを言ってる。ダグマ−はアンソニ−のキ−ボ−ドの前にいって、何が始まるのかと思えば、髭剃をマイク前で揺らして、リズムを作ってる。教授〜ぅ!それっておれが、トドムンドのみんなに箸持たせて、グラスやら皿叩かしてるのとコンセプトはそう変わらんでしょ。もちろん教授だからリズムはズレないけどさ。ピ−タ−はギタ−ものすごく上手い。でも上手いのと決められたことを決められたようにやるのとは別の問題だ。ある曲でイントロから歌にいくところ、なんか気にいらんかったみたいで、ブツブツいいながら演奏止めちゃった。で、もう一回アタマから。そんなのがたまらなく好きなおれは嬉しくってしょうがない。アメリカ型の、ということは日本芸能界型のコンサ−トではこんなことはユルされないでしょ。ショ−などという概念がその音楽家の実力を超えて作用するとき、それは世にも醜悪な音圧の暴力的押しつけになってしまう。楽しむことを強要するようなシカケ、そんなものはツマラなくってしょうがないんだけども、そんなシカケで「かんど〜したあ」なんちゃってるバカが星の数ほどいるから話はややこしいんだけども、なあんにも知らないでおわるヒトタチにはおれは何らかの慈悲をかけてあげるほどヒマでもないので、彼らには、点々のついたイエエって掛け声とともにデルタ宇宙域へでも行ってもらうことにして、今は最重要音楽家のライヴなのだ。その現場においては汚らしいイエエなんていってるバカは一人もいなかった。幸せだ。

 三人ともすがすがしくも美しい。完璧に素晴らしい曲を三人だけのチカラで能力総動員で(その能力ってのが高いんだけどね)がんばってやってる。バンドサウンドを打楽器なしでやるってそばで見てるほど簡単なことじゃない。ピ−タ−のギタ−はほんとスバラシイ。ム−ア教授がEGを持ってピ−タ−が「昔子供の頃、ファ−ストを録音してるころだけどね、ヴェルヴェット・アンダ−グラウンドみたいなロックン・ロ−ルをやりたくてよくこんなことをやってたんだ」という注釈つきで始まった2コ−ドのハモリが本家そっくりの曲なんて、ドラムもベ−スもいないのにあのグル−ヴ(groove)感。おれもがんばろうと思ったよ。でもさあ、「子供」があんなアルバムつくられへんやろう、しかし。

 約20曲・2時間。至福の時は終わろうとしている。2回目のアンコ−ルのときにピ−タ−・ブレックヴァドがタバコ喫ってたのが、おれはなんだかやけに嬉しかったよ。非芸能界的なものと健康志向はどうも相容れない感じがしてたんだ。なんかちょっと安心した。つまんないことだけどね。

 西部講堂でほんとによかった。うしろの映像も控えめで、やっぱり音楽家は音楽そのもので勝負しましょう、と思ったよ。

 入り口近くだったから、終わると同時にダッシュで309んとこまで行って、きっと知り合いも来てたと思うんだけど、それについてお話はなんか、批評めいたことを口にするのは憚れた。171を「そこそこ」ぶっとばして大阪へと帰って来た。その日は京都南部で震度3の揺れがあった日だったけど、終わりは心の中のある部分が微かに揺れているだけだった。その揺れの振幅を大きくしていくことがぼくのスラップ・ハッピ−へのお返しだ。

<<実は、前川くんが当日のPAをやってて、それを一月ほどあとに聞いて、なんや、そーかー、といってたのを思い出した。前川君はその何年か前、クアトロでTELEVISIONのトム・ヴァーレインもやってて、その時もぼくは現場にいた。彼はパンク世代であるからか、この2アーティストをPAしたことがが自らのエポックである、と言っている>>
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2005年07月04日

'01夏

 気が狂うんじゃないかってぐらいのアツサじゃない?6月ですでに36度ってこりゃいったいなんなんだよ。今は7月だけどもうあの時点で梅雨は空けとったなあ、ってポイントあったよね。おれはこれから夏期講習という時間帯に突入だけど、以前のような怒濤のなんとか、みたいな感じでは最近はなくて、でもやっぱ、しんどいことはしんどいんだけど、その日のおとしまえつけるために今日も肉喰ってやるう!なんてことはなくなった。今回は久しぶりに FANDANGOで8/19(日)にライヴありますのでそのことを少し。
 
 FANDANGOというライヴハウスは十三にあってもう出来て15年以上経つと思う。ぼくは出来て2ヶ月目ぐらいから出てる。多分今でも出演時間数でいうと最多ではないかなあ。バナナやクアトロなどの少し大きめのハコとは違って自由で昔はほんと好き放題やってた。その好き放題に大喜びするねーさんがいて、それが初代店長のムーちゃんだった。ただただかっこいいだけの今考えるとおれとしてはちょっといただけないって感じの A Decade−IN FAKE時代よりも日本発/日本初のSALSA ROCKをやってた、SONNA−BANANAん時の盛り上がりってすごかった。ぼくらの「パンキーズーク」というリズムはそれはそれはもう半端じゃなく強烈だったからさ、8ビートのノリとは違うからさ、それにガイジン率も高くてそいつらにウケルウケル、そんな中おれたちもアツクなってライヴの後半ともなるとね、おれも、キタバヤシもカオルちゃんもシーラも、イッチャウやつはどこまでもイッチャウわけよ。でね、それに異常に反応してくれるのが前述のムーちゃんなわけ。知らん間に安定の悪いファンダンゴのテーブルに乗ってチチがはみでようがパンツ見えようがおかまいなしの大暴れ。いやーパワーあったよなあ。そしてそれを見た、おれもさらに激しくアオっていく。そんなこんなで夜の一時ぐらいまでやってたことがあった。3時間4時間なんて当たり前で、過剰なんですけどもともとね、でも、ヤリたいときがウマいとき、なセオリーをほんとによくわかってくれるお店とスタッフというのが当時の十三ファンダンゴだったわけ。先程述べた出演時間数最多なんてのも、出た回数もさることながら、一回のライヴで他のバンドの3回分ぐらいやっちゃうんだからさ、しょうがないよね。当時は東京とか名古屋にもよく呼ばれて行ってたりしたけど、やっぱりソンナバナナはファンダンゴまでわざわざ見にいかなくちゃっていうのが定説だった。東京だと対バンだし、50分で終わって下さいね、なんて感じだったからね。50分経ってやっとカラダあったまってくるって感じなのにね。今メジャー行ってるやつにも当時のおれたちのファンは結構多い。モダチョキのまりちゃんとか。松本(ウルフルズ)も必ずアンコールのときは現れて一番前にいた。カオルちゃんのギターのファンだったのかな。音楽やってるやつだったらきっと無視できないことをやってたソンナバナナだったが、しかし、メジャーにはウケが悪かったよね。先に進み過ぎてたことがひとつと、おれがアホにえらそうにいわれるとすぐカオに出てたからね。おれがリーダーじゃなかったらよかったのかもね。バンドのみんなごめんなさい。
 
 そんなファンダンゴも今では随分こじんまりとしちゃったんだけど、それでもなおファンダンゴはファンダンゴであるはずなので、音楽的友人たちとの久しぶりのちょっとアバレ、楽しみです。

<<今年'05は、ということは丸20年くらいになるんじゃないかな。しーちゃんのお母さんも歳とるはずやね>>
posted by おれ at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | music関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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